あの日の約束 前編



 目が覚める。
 聞こえてくるのは、小鳥の囀り。
 そして、ひぐらしたちの共演。
 それを耳にして、不意に思う。
 ――今日も始まったんだな、と。

 それは至極当然なこと。
 いや、当然だと思っているから、恐ろしいのかもしれない。
 この幸せな日常が、唐突に壊れてしまうのではないかと。
 どれだけ固いものだろうと、壊れないものはこの世に存在しない。
 それは物質でもあり、人でもあり、そしてこの世界でもある。
 そして、人は簡単に壊れる。
 それを思い知ったのは、昨日のこと。
 そして壊れてしまった人間の名前は――竜宮レナという。

 影ながら分かっていた。
 彼女は誰よりも冷静で、誰よりも大人っぽい人間だと。
 しかし、それは違った。
 彼女は、まだまだ幼い少女でしかなかったのだ。
 自分はずっと彼女に対して勘違いをしていた。
 それが自分の罪。

 結局、大人とは何なのだろうか?
 仕事が自分で出来れば?
 責任感が自分で持てれば?
 いや、違う。
 外面だけで人間は大人として判断されはしない。
 また精神だけが出来ていても、それは然りだ。
 大人という分類は、要は、役職・官職と同じようなものだ。
 『大人』という位に上がることによって、ようやく許可されるものが出てくるだけ。
 それ以外は、何ら子どもと変わることはない。
 『大人』だからと言って、誇る理由などどこにもない。
 考えてもみれば、ただ歳をとっただけに過ぎないのだ。

 ひょっとすると、人間は永年永劫『子ども』なのかもしれない。
 ただ――人間はそれを認めようとはしない。
 自分の方が長く生きている。自分はちゃんと働いている。
 それを主張したくて、『大人』という言葉が出来ただけだろう。

「…………」
 すっかり見慣れた天井を見つめつづける。
 身体中に襲う筋肉の痛み。
 それが昨日の出来事を、現実のものだと自分に突きつけている。
 不意に、今は何時だろうかと思う。
 モゾモゾと身体を動かし、時計に目をやると、短針は7を指していた。
 始業の鐘がなるのは8時過ぎ。
 このままならば、遅刻と言うことはないだろう。
 それを確認して、ゆっくりと身体を起き上がらせる。
 と……。

 ――ピンポーン

 突如鳴り響く、チャイムの音。
 それを耳にして、まず頭に浮かんだのはレナの顔。
 しかし、彼女にしては、まだまだ時間が早い。
 だとすれば、誰だろうか? と、首を傾げる。
 と、同時に凄まじい勢いで階段を駆け上ってくる音が耳に届く。
 そして、荒々しく開けられた部屋の襖。
 そこに立っていたのは――父である前原伊知郎。
 そしてその目に自分の姿を捉えると、凄まじい勢いで詰め寄ってくる。
「け、け、け、け、け、け、圭一!」
「どうしたんだよ。父さん」
 すっかり慌てている父に対して、冷静に返す。
 まぁ、慌てることになった現場を見ていないのだから、しょうがないと言えばしょうがないのだが。
 しかし、この慌てぶりはある意味異常でもある。
 父は続ける。心なしか、興奮しているようにも思えるが。
「お前、レナちゃんに何を言ったんだ!?」
「……は?」
 そう言われて、少し昨日のことを思い出してみる。
(別に何も……)
 と、思ったところでふと気になる言葉が思い当たる。
 まさかな……とは思うが、目の前の父親に尋ねてみる。
「レナが、どうしたって?」
「れ、レナちゃんがな……」
 と、その後ろから不意に現れる影。

「お、おはようございます……。ご主人様。お父様」
 顔を赤らめて、現れたのはレナ。
 しかし、その服装は決していつもの制服ではない。
 黒のワンピースに、フリル付きの白色のエプロン、そして白色のカチューシャを身につけている。
 端的に言えば、彼女は今『メイド服』を着用している。
 そうなったのは、昨日の戦いの時の約束が故であろう。
 自分が負けた時は、レナの家の召使いとなり、レナが負けた時は、自分専属のメイドになる。
 そして、結果的に勝ったのは――自分。
 いや、しかし、予想はしていたものだが、この可愛さは反則でしかない。
 特にモジモジとしながら、エプロンの裾を掴んでいるのが、悪戯心を擽らせる。
「はぅ……。に、似合ってるかな? ……かな?」
「あぁ。凄く似合ってる。可愛いよ、レナ」
「は、はぅ……。あ、ありがとう」
 彼女の十八番ではないが、お持ち帰りが出来るのならしてやりたい。
 まぁ、それよりも今の自分にとって邪魔なのは……
「レナちゃん。似合ってるよぉ!!」
「あ、ありがとうございます。お父様」
 この目の前にいるクソ親父かつ変態親父かつダメ親父である。
 どうでもいいから、ここから出て行け。俺とレナの至福の時間を奪うな。
 そう願った矢先、部屋の前に現れたのは
「何してるの? あなた」
 我が家の母であり、救世主でもある――前原藍子。
「い、いや、ちょっと」
「言い訳は後で聞きましょう」
 言い訳すらキッパリと遮断して、彼女は部屋の中へと入ってくる。
 そして父の襟首を掴むと、そのままズルズルと自分の部屋から引きずりだしていく。
 途中、父親の助けを求める表情が見えたが、無視をした。むしろ、いい気味である。

 父親と母親が出て行き、この部屋には自分とレナの二人だけになる。
 それを意識すると、妙な緊張感まで感じる。
「あ、あの。圭一くん」
「ご主人様、だろ?」
「ご、ごめんなさい」
「別にいいって。最初は慣れないだろうし。で、どうしたんだ?」
 レナは心配そうに口を開く。
「お父様は、大丈夫なのかな? ……かな?」
「あぁ、大丈夫だろ。あの親父なら、何度殺されても蘇りそうなイメージがあるし」
「あはは……。そうなの?」
「あぁ」
 雑談で盛り上がる二人。
 そこにはいつもの彼等の光景が広がる。
 まるで昨日のことなど何もなかったかのように。
 しかし、彼等が学校に行かねばならない時刻は刻々と近づいていた。

続く