初めてのでーと 第十話
「今更のような気もするが、……一つ聞いていいか?」
「何ですか?」
「どうして」
足元は綺麗に整えられた緩やかな斜面。
「俺は、こんなところを歩いてるんだろうな?」
彗は、少し納得がいかない様子でそう言った。
そう、彼らが歩いているこの場所は、ちょっとした丘のように土地が出来上がっている場所だ。
とはいっても、彗は元々こんな場所が自分の住む街にあるとは知らなかった。いわゆる未開の地というわけなのだが……。
「それは、私が行きたい場所がこの先にあるからです」
にっこりと笑顔で微笑んで、円花は彼の先を歩く。さすが死神といったところか、その息はほとんど乱れてはいなかった。
「へぇ……って、そうじゃなくて」
納得するには十分な理由なのだが、後一つ彼には気になることがあった。
「俺は、お前をここに一度でも連れてきたか?」
自分の記憶が正しいか否かを確認する。これで、『はい』と答えられた暁には、近くの壁にヘッドバッドでもして、無理やり記憶を取り戻してやりたいぐらいなのだが。
「ありませんよ?」
案の定、彼女の答えは予想していたとおりのものだった。
だが……。
「一度ここに来てからこの場所が、ずっと私はお気に入りなんです」
『へぇ……』と頷こうとして、違和感を感じる言葉があったことに彼は気付いた。
「……待て。今さっき、俺は『一度でも連れてきたか?』と聞いたはずだが。どうして、来たことがあるんだ?」
「……? それは、一人で来たからに決まってるじゃないですか」
昇神彗。彼女の言葉に、度肝を抜かれる。
「いつの間に!? 登下校も一緒だし、ほとんどお前は休日は家にいるはずだろ!?」
「あ、彗さんが起きる前に行ったんです」
「俺が起きる前……って、大体、お前寝てるじゃねぇか!? いつの話だよ、それは!」
「一週間前です」
「一週間前……って、お前、普通に寝てなかったか?」
「帰ってきてから、また寝ましたから」
「何で寝るの!? そのまま起きてればいいだろ!」
「む。彗さん。人の睡眠を邪魔するつもりですか?」
「何でそうなるんだよ!? そういう話の展開になる意味がわからんわ!!」
「あ、彗さん。もうそろそろですよ」
先を歩いていた円花が、まるで何事もなかったかのようにそう言った。
「あ、あぁ……。っていうか、無視かよ」
「……? 何か言いましたか? 彗さん」
小声で呟かれた彼の言葉が、わずかに耳に届いたのか、円花は顔を振り返らせた。
「いや、何にも」
聞こえていないのならば好都合。というか、単なる愚痴のようなものなので、彼女には聞こえないほうがよい。彗は、内心でほっとしていた。
「ここです。彗さん」
「まったく、こんなところ昇らせて。一体、何があるって……」
顔を上げて、円花が指差す方向へと目を向けた。
それと同時に、その視界に広がった光景に、思わず彼は言葉を失った。
夕焼け色に染まる自分の暮らす町並み。
鮮やかに染められたそれは、それだけで美術館に飾られるような芸術作品のよう。
自分の知っている街とは到底思えない。引っ越してきたばかりの人間の気分は、こんな感じなんだろうな……と思う。
「どうですか? 彗さん」
「…………」
すぐ隣に立つ彼女の問いかけすら、耳を通り過ぎる。
彼は、視界に広がるそれに、完全に見惚れてしまっていた。
「彗さん? 聞いてますか?」
しばらくして、不思議そうに彼の様子を窺う円花の声が、ようやく彼の耳に届いた。
「……あ、いや。悪い。何だっけ?」
「もう……。彗さん、感想ですよ。感想」
「あ、あぁ。感想か……」
そう言われて、再び目をその光景へと向けた。
その感想を表現するには、自らの持つ表現力では圧倒的に足りないような気がする。
ただ、これだけはいえる。
「……すごいな」
彼はそう言葉を漏らす。
「……それだけですか?」
予想していたほどの反応と、彼の反応がよほど違ったのか、不満そうに円花は彼に尋ねた。
「いや、何ていうか、言葉で表現できないっていうか……」
「その気持ちは分かりますけど、もうちょっと言ってくださいよ……」
「あー、えっと。それじゃあ……だな」
顔を上に向け、必死に感想に合った適切な言葉を、脳という頭の辞書から検索し始める。
しばらくして、その言葉が見つかったのか、彼は言葉を紡いだ。
「こんな鮮やかなものが、すぐ身近にあるとは知らなかった」
「……そうですか。それは、よかったです」
彼の反応に満足したのか、円花はにっこりと微笑んだ。それを見て、ふっと彗も口元を緩め、笑みを浮かべる。
そんな和やかな雰囲気が二人の間に生まれたとき、思い出したかのように円花はパンッと手を叩いた。
「あ、彗さん。私、もう一つ行きたい場所があったんです。行ってもいいですか?」
「そこは遠いのか?」
「いえ、ここのすぐ近くにありますから」
どうやら、その様子だと時間という問題はほとんどないらしい。だとすれば、彗には断る理由がないのであって。
「ふーん……。じゃあ、行くか」
「はい!」
嬉しそうに反応して、円花は彼の右手と自らの左手を絡み合わせた。
「…………」
ポリポリと、気恥ずかしそうに頬を掻きながらも、彗もその手に力を込める。
二人にとっては、今は……それだけで十分だった。