蕩けるほどの甘さで


 世の中に『甘える』と言う言葉があるのは当然知っている。
 だが、後悔した。甘えられるというのは、あれほどまでに心理的負担を負うものとは知らなかったからだ。

 事の発端は、数日前のことだった。
 本当にいつものように何気なく彼女と夕飯を食べているところからだった。
「これ、おいしいですね」
「まぁ、今日の中では一番の自信作だ。一応」
「そうなんですか……。あっ、おかわりお願いします」
「あぁ。って、お前、これで何杯目だ?」
「六杯目です」
「多ッ!? 相変わらず思うが、よく食えるよな……」
「で、ですから、それはエネルギー補給のために……」
「それは十二分に理解してるが、たまには食費とかにも気を遣ってほしいんだが」
 彗の言うとおり、ここ数ヶ月の彼の家計簿は火の車状態と言っても過言ではない。
 たまらず母親たちに対して、仕送りを多くしてくれだとか、自分の買いたいものを我慢してまで、家計へとお金を納めているわけである。
 ここ最近は、よくそれだけ災難を運ぶ彼女を家に置いているな……と、自らの優しさに思わず感心しているところであった。
 とは言っても、やはり一人で食べる食事と、誰かと食べる食事となると、やはり気持ちにも大きな違いが生じるものである。
 内心、彗は彼女と一緒に過ごすことには楽しさも感じていたし、嫌悪感を抱くということもなかった。

 何気ない会話を繰り返しながら、食事の時間はあっという間に過ぎていく。
 そんな中、ふと円花の視界にとあるものが映った。
 部屋に片隅に置かれた大きなビンに入った何かの液体。ビンの外側からは、それが何なのか判断することは出来ない。
「彗さん。あれ、何ですか?」
 彼女はそのビンを指差しながら、彗に対して尋ねる。
「あぁ……。確かあれは、酒だったはずだ」
「何であるんですか?」
「この前、親父が勝手に届けてきたんだよ。何を意図して送ってきたのか、さっぱりだが」
 ため息混じりに、彗はそう口にする。
 しかし、円花の興味は、どうやらあの酒だけに向けられているようであった。
「……飲んでみていいですか?」
「いや、飲んでいいか? よりも、俺もお前も未成年だろ」
「ヨーロッパは16歳からなんですよ?」
「それは知ってるが、ここは『日本』だ」
 諦めろ……と言って、彗はそれから話題を逸らそうとする。
 しかし、円花はそれとは異なり、未だ諦めきれない様子で
「それなら、少しだけでいいですから……」
 と、頼みを請うように言った。
「……まぁ、少しだけなら、身体に害はないだろうが」
「じゃあ、いいですよね」
 強引にそう決定付けると、円花は席から立ち上がり、そのビンを手にして、再び彗の元へと戻ってきた。
「コップ、取ってくれませんか?」
「はいはい……」
 彗は立ち上がり、コップを二つ取り出すと、半分ほど水を注いで、円花の目の前に置いた。
「……? 何で水を入れるんですか?」
「何でって……お前。まさか、そのまま飲むつもりだったのか?」
「違うんですか?」
「……そんなことをするやつは、よっぽどの酒好きか、アルコール中毒になりたいやつのどっちかだよ。そういう酒は普通は薄めてじゃないと、飲めないんだ」
「……なるほど。勉強になりました」
 そう言って、円花はその二つのコップに、コップの三分の一ほどの酒をトクトクと注ぎいれた。
 色は無色透明。コップの口を手で仰いでみれば、確かに酒の匂いが鼻を掠める。
「じゃあ、一応……」
 彗は円花の方に向けて、コップを突き出した。
 円花もその意図を理解したのか、同じくコップを身体の前へと出す。
『乾杯!』
 カンッと、ガラスのコップをぶつけ合うと、二人はほぼ同時にそれを口の中へと流し込んだ。
 ――何と言うか表現しがたい味。ジュースともいえないし、もちろん水ともいえない。
「……ふぅ」
 コップに入っていた三分の一ほどを飲み干すと、彗は一旦コップから口を離した。
「……やっぱり、あんまり飲むもんじゃないな」
 そう呟いて、今度は目の前にいる彼女へと視線を向ける。
「おい。まど……」
 しかし、彼女を見た瞬間、彼の動きが一瞬で停止した。
 勢いよく酒を飲みつづける円花。あろうことか、彼女は一気飲みをしようとしているのである。
 酒を薄めて飲めというのも、当たり前だが、一気飲みというのはそれと同じくして、円花や彗のように未成年にとっては危険なことこの上ない。
 彼女は死神だから、それに対しての耐性はどの程度か分からないが、一般人程度だとすると、場合によっては卒倒する可能性だってあるのだ。

「…………」
 案の定、彼女は完全にコップの中の酒が無くなってから、コップから口を離した。
 心なしか、彼女の目の焦点が合わさっていないような気がした。
「お、おい。大丈夫……か?」
「……彗さん」
 熱を帯びた彼女の声。何故だろうか。身体中が、危機を訴えている。
 思わず席から立ち上がり、身体を彼女から退けていく。まさかとは思うが……彼女の身体は酒というものに対してからっきし耐性がなかったのではないだろうか。
 彗が立ち上がるとほぼ同時に、円花も椅子から立ち上がった。
 狭い家の中。逃げ場など、どこにもあるわけがない。ましてや、彼女は死神。やろうと思えば、何だって出来るであろう。
「お、おい。しっかりしろ。円花」
 声をかけても、それに反応することはなく、ただただ彼女は彗の瞳を一点に見つめるのみ。聞こえていないのか、はたまた――。
(だから、飲ませたくなかったんだ……!!)
 心の片隅では、こんなことも有り得るのではないかと思っていた。そして、現実に起こったそれ。
 これでは、何を憎めばいいのか分からない。ただ、この場を切り抜けるのは相当大変そうである。
「……捕まえました。彗さん」
「……え?」
 気付けば、目の前に彼女が――いた。
 彼女との距離はかなりあいていたはずだ。だとすれば、一瞬の間で瞬間移動でもしたというのだろうか。
 しかし、そんなことを考える暇もなく、物凄い力で床へと彗は押し倒される。
「彗さん……」
 そう言って、自らが倒した彗の胸に身体を摺り寄せる円花。
 ――まずい。彼女の目からしてまずい。
 そうは考えても、彗の逃げ場はどこにも存在しなかった。
「大好きです……」
 いつもの状況だったら、滅多に口にしない彼女のその言葉。
 それが口にされたということは、彼女が今何を考えているのか、大体想定がつく。
「もう……逃がしませんよ」
「ま、待て! 円花」
 彼女の顔が近づく。身動きが取れない以上、それに何らかの行動を示すことも出来ない。


 今更後悔に明け暮れたところで、もはや遅い。


 例え泣きつかれても断っておくべきだったな……と、彗は心底そう思った。


 唇に当たる柔らかい感触を感じながら――


終わり