瞳をとじて

 夕方時のパン屋。
 その居間には、二人の男女が居座る。

「目を閉じろ――?」
「だから、さっきからそう言ってるでしょ!」
 首を傾げつづける少年の反応をいい加減じれったく感じてきた少女が、ついには大声を張り上げる。
 まぁ、しょうがないと言えば、分からなくもない。
 この会話のまま、もはや10分が過ぎようとしているのだから。
「だから――なんで、そんなことをする必要があるんだ?」
 と、少年。
 ついでに言うと、この少年の名は『ライル・エルウッド』と言う。
 幼き頃、『首席』という確固たる地位を得て、かつて所属していたイエズス会では優秀修道士として将来を期待された人物であった。

「そんなの……分かりなさいよ、もう……」
 と、彼に聞こえないように小さく呟く少女。
 連続するようだが、彼女の名は『マリエッタ・テトラツィーニ』と言う。
 彼女もまた、指揮統率・情報伝達の分野において、イエズス会の中ではかなりの実力を持つ。

 ――だが、今は違った。

「……?」
 何かを呟いた彼女の様子に、ますます不思議がる彼。
 いつもならば、凄まじい速さで回転する彼の頭脳も、今だけは錆び付いてしまったかのようにまったく動かない。
 彼女の言葉の真意に気付く素振りは――如何ほどもない。

 ならば、彼女が――というわけにもいかなかった。
「…………」
 いつもならば、毅然とした態度で喋り続ける彼女も、今日は別人のように言葉が少ない。
 ただ黙って、彼の言葉をひたすらに待っている。

「…………」
 彼女のその様子をジッと見つめ、彼は言葉を紡ぐ。
「――分かった。目を閉じればいいんだな?」
 それは彼女に確認を取るように。
「――そうよ」
 と、ぶっきらぼうに言葉を返す少女。
 だが、その内心は話す口ぶりとはまったく相対的なものであった。
(……どうしよう)
 いざとなると、何をすべきか分からなくなった。
 後先を考えず、勢いだけに任せた結果がこれだ。
 もう少し、冷静な態度で彼に臨むべきだったのではないかと、今更ながらに思う。
 しかし、そんな彼女の内心など露知らず、目の前の彼はゆっくりと目を瞑った。

 ――重苦しい沈黙。
 この状況を作り出した彼女自身ですら、その雰囲気に飲み込まれてしまいそうだった。
「ッ……」
 手を伸ばしては、また戻し、また伸ばしては、元に戻す。そうして、事態は一向に進展しない。
 事実――彼女はこの行為に引け目を感じていた。
 こういうものは堂々と目を合わせてすることだと分かっているし、自分が逆の立場だとしてもそれを望むだろう。
 だけど、だけど――今の自分にはこうすることしかできない。
 私が『私』ではなくなる一瞬を、彼に見られたくなかったから……。


 それから幾分かの時間が経ち、少女は再度ゆっくりと両手を伸ばし始めた。
 だが、今度は手を戻すということはない。
 ゆっくり、ゆっくりと――彼の身体へと彼女の指先が伸びる。
 そうして、それらが彼の肩口を優しく置いた。
「ん……?」
 と、間近で彼の口から漏れた言葉にすら、彼女は気付かない。
 少女は自らの身体をゆっくりと彼の身体へと近づけ、己が唇を突き出した。
 そして、少年を見習うようにして、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。


「お、おい! マリエッタ!?」

 ――と、その時。彼の、声が聞こえた。
 少女は予想外の事態に、慌てて瞼を開こうとする。


 ――だが、もう遅かった。
「ッ……!?」
 自分さえも驚くほど、唇に柔らかな感触。

 その瞬間――

 彼女の中の時が、止まった。




「…………」
 ――重苦しい沈黙だった。
「……あのさ、マリエッタ」
「何よ、バカ……」
「…………」
 その言葉に、ライルは仕方なく口を噤む。
 対して、マリエッタは床に座り込んで、顔を俯かせ続けている始末。
 彼が、いくらこの状況を打破しようと思っていても、彼女がこんな様子では話し合える余地すらない。
「――はぁ」
 と、小さくライルはため息をつく。
 まったくこんな状況になってしまったのは誰のせいなのだろうかと、嘆きつつ。
 と、そんな時。
「……でしょ」
 彼女の口が、小さく何か言葉を紡ぐ。
「――え? ……今、何か言ったか?」
 上手く聞き取れなかったライルは、マリエッタに尋ねる。
 そうすると、彼女は先ほどと同じような口調で、言葉を発した。
「――私のこと、嫌な奴って、そう思ったでしょ?」
「――は?」
 ライルには彼女の言葉の意味が分からなかった。
 だが、その真意を聞き返すよりも先に、彼女は言葉を続ける。
「――分かってるわよ、そんなことぐらい。こんな性分、自分でも嫌だって思うぐらいだから」
 いつもの彼女とは思えない、ネガティブな発言。
 そのまま喋らせては、嫌な予感がする。――そう、ライルは感じ取り、自ら言葉を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待て、マリエッタ! 誰が、お前にそんなことを言ったんだ!」
「言わなくても分かるわよ。私なんかどうせ……」
「勝手に人の言葉を決め付けるな! 少なくとも俺はお前のことをそう思ったことなんて、一度もない! 今までも、もちろん今も!」
「…………」
 ライルは力強い口調で、言葉を続ける。
「それに、俺はさっきのことなんて全然嫌だなんて思っていない! ……どっちかと言えば、嬉しかったぐらいだし」
 羞恥心のせいか、最後の言葉は尻すぼみしたように声が小さくなっていった。
 と、そんな彼の言葉を受け止めた彼女が、ゆっくりと口を開いた。

「……じゃあ、もう一回」
「――え?」

「……もう一回、やり直してもいい? 今度はちゃんと、するから」
 ライルの瞳を見て、途切れ途切れに紡がれる言葉。
 それに断る理由はない。――ないの、だが。
「…………」
 ライルは彼女に何と言葉を返すべきか、考えあぐねていた。
 そんな内に、彼女の身体が再度ゆっくりと彼の元へと近づく。
 ――結局、困り果てたライルは
「お、お願いします」
 と、男としての威厳がまったく感じられない言葉を発した。

 そうして、一度――唇が触れ合った。


終わり


 ……久しぶりにライマリ小説だったのですが――イチャイチャ!? いや、イチャイチャを目指して書いたのですが、それが書けたのかどうかがまったくの不明。――書けたことを望みますが、はてさて皆さんの目からは何と見えるのか。
あと、今回は王道的なネタをもって来ました。実は〜という伏線も一切なしです。――つまらなかったかもしれませんね。
では、今日はこの辺りで。