あれから数日が経ち、めでたく薙刃はチアリーディング部の一員として、初日の活動を迎えることになった。
「勾薙刃です! よろしくお願いします!」
 そう元気よく挨拶をして、彼女は深く頭を下げた。
「薙刃ちゃんか……。辛いと思うけど、がんばってね」
「はい。がんばります!」
 そんな彼女の様子を見て、経験者である先輩たちもその顔に軽く笑みを浮かべた。どうやら、彼女の挨拶は彼等に好印象を与えたようである。
「じゃあ、次は……」
 そうして、薙刃の隣に立つ人物へと焦点が向けられ……。
 やがて、部活が始まりを告げた。


彼女と彼の運命 〜新たな出会い・新たな関係〜



「……ふぅ」
 活動を開始して、数時間。
 ようやく訪れた休憩時間に、薙刃は体操座りをしながら、疲れた身体を少しずつ休ませていた。
 まだ一日目だというのに、今までの練習だけで身体がだるく感じられてくる。それは自分がまだ練習に慣れていない証拠でもあり、はたまた体力がまだまだ出来上がっていない証拠にもなる。
 それに比べて、先輩たちの動きはいつ見ても疲れなど感じていないようにも見られる。
「すごいなぁ……」
 さすがは一、二年練習してきただけのことはあるといったところだ。そんな姿を見ていると、さすがに尊敬の念を抱かずにはいられない。
 と、そんな時。
「がんばってるみたいね」
 聞き覚えのない声が、すぐ間近で薙刃の耳に届いた。
 いきなりだったためか、驚いた様子で薙刃は声をかけられた方へと顔を振り返らせる。
 そこに立っていたのは――一人の女子生徒の姿。
 腰元まで伸ばされた長髪は綺麗に手入れされ、顔も整った顔立ちをしている。まさしく『綺麗』な人という表現が似合う人であった。
 しかし、彼女の顔は新入部員の中では見なかったはず。だとすれば、目の前の女子生徒は先輩ということになる。
「あ、はい」
 薙刃はそれに勘付き、咄嗟に口調も敬語へと切り替えた。
 それを聞いて、その女子生徒は苦笑いを浮かべる。
「あー、私に対しては敬語なんか使わなくていいわよ。というか、何か気恥ずかしいのよね。敬語で話されると」
「そうなんですか?」
「そんなところよ。ま、私は特別なのかもしれないけど。一応、他の奴等にはきちんと敬語使いなさいよ? 場合によっては、目をつけられるかもしれないから」
 ニヤリと笑みを浮かべながら、恐ろしいことをいわれ、薙刃はその圧力に押されながらも、小さく頷いた。
「は、はい」
 『ん……。それでよし』と、目の前の女子生徒は彼女の反応を聞いて、満足そうに頷く。
「ところで……失礼かもしれませんけど、お名前は?」
「私? あ、そういえば、まだ自己紹介してなかったわね」
 『ごめんごめん』と、呟きつつ、彼女は口を開いた。
「私は、マリエッタ・テトラツィーニ。マリエッタでいいわ。一応、あんたの一個上になるわ」
「マリエッタさん……ですか?」
「そうそう……。って、だから、敬語はやめなさいって。マリエッタでいいってば」
 『つい、さっき言ったばかりでしょ……』と、ため息まじりに彼女はそう呟いた。
「でも、気が引けるというか……」
「まぁ、そんなところだとは思ったけど……。じゃあ、少しずつでいいから、慣れて」
「な、慣れて?」
 命令口調でそう言われた薙刃は、一瞬の驚きのあまり、自分の耳を疑った。
 マリエッタは、言葉を続ける。
「そうよ。これは、命令よ」
「め、命令って……」
「何? 何か文句ある?」
 先輩の貫禄というか、そんなところであろう。
 薙刃は彼女の言葉に対して、何も言うことは出来なくなり言葉を詰まらせた。
「……ないです」
「それでよし」
 満足そうに笑顔を浮かべたマリエッタを見て、薙刃は『すごい先輩だなぁ……』と、先ほど抱いた尊敬の念とは、また違った感情を、彼女に対して抱いていた。

「休憩時間終了です」
 そんな時、自分たちが活動する体育館にそんな部長の声が響き渡った。
「それじゃあ、がんばりなさいよ」
 そう言って、立ち去っていく彼女の背中に向かって薙刃は元気よく
「あ、はい!」
 と、言った。
 だが、その瞬間、マリエッタは振り返り、小さく告げた。
「……敬語」
「う、うん!」
 冷や汗を浮かべつつ、薙刃はすぐさま言葉を訂正した。まったく、独特な雰囲気を持つ先輩である。
「あたしも……がんばらなきゃ」
 そう自分に言い聞かせ、薙刃もゆっくりと立ち上がる。
 外は、少しずつ、暗闇に染められていく。

「はぁ……」
 顔を上げ、空を望めば、白色に輝く月がぽっかりとそこには浮かんでいる。
 初日だというのに、こんな時刻まで続けられていたせいか、薙刃の身体にはすっかり疲れが溜まってしまっていた。
「明日、大丈夫かな……」
 明日、目覚めた瞬間、全身が筋肉痛になっていてもおかしくない……。
 自分の身体だからこそ、容易にそんなことが想像についた。
 と、そんな時。

 信じられない言葉が――どこからともなく彼女の耳に届いた。

「何だ。もう、諦め気味か?」

「……え?」

 その声に聞き覚えがないわけではない。
 薙刃は、その声の主が誰なのか知っている。しかし、こんな時刻に、こんな場所に、その人物がいるはずはない。
 だが、あり得ない現実が……彼女の目の前に広がった。

「どうした? 素っ頓狂な声を上げて」

「ライ……ル?」

 目の前に現れたのは、薙刃が想像していた人物そのものの姿であった。
 自転車に乗ったその人物は紛れもなく――ライル・エルウッド。
 薙刃は、思わず自分の目を疑った。
 何度も目を凝らし、その映像が幻像ではないかと疑い続ける。だが、いつまで経っても、その姿は彼女の視界から消えることはない。
「何だ。その幽霊を見たような目は……」
「ライル……なの?」
「って、俺以外の誰がいるんだ」
 『おいおい……』と、彼の小さな呟きが薙刃の耳に届いた。
「で、でも……どうして?」
「どうしてって……、お前聞いてないのか?」
「……? 何を?」
「……はぁ」
 頭を押さえ、彼女の口から漏れた真実に、思わずライルの口からため息が漏れた。
 だが、薙刃にとっては、全てに対して何が起こっているのか把握することが出来ない。とりあえず、把握できたことといえば、目の前の人物が幻像ではないということぐらいであった。
「まぁ、いい。さっさと帰るぞ」
「……え? 今、何て……」
「お前、さっきから驚いてばっかりだな……。一緒に帰るぞって、言ったんだ」
「…………」
 その瞬間、薙刃の一切の動きが停止した。
「おい、どうした?」
「……な、何で?」
「……本当に何も聞いてないのか」
 再度ため息をつくライル。
 何が起こっているか訳も分からなかった薙刃であったが、何か申し訳なく思い、彼女は顔を俯かせた。
「迅伐って奴に頼まれたんだよ。お前の帰り道に付き添ってやれって」
「迅伐が?」
「あぁ……。ほぼ強引だったけどな」
「え……? 今、何て?」
「いや、何にも」
 途中に紛れた本音を誤魔化しつつ、大まかな内容を薙刃に伝えるライル。
 それを呆然と聞いている彼女の様子を見ていると、どうやら迅伐という少女からは何も伝えられていないことが容易に想像がつく。

 一通りの説明が終わると、薙刃は納得したように一旦頷いた。
「そう、だったんだ……」
「あぁ。で、帰るんだろ?」
「う、うん」
「だったら、さっさと帰るぞ。これ以上遅くなったら、俺まで危険になるかもしれないからな」
「ご、ごめんなさい……」
「……気にするな。さっきのは、ただの愚痴みたいなもんだ」
「……うん」
 そう言って二人は、街灯に照らされるだけの真っ暗な道を進み始めた。


「…………」
「…………」
 進みだして数分間。二人の間に、一切の会話は存在しなかった。
 気まずいという理由もあるかもしれないが、大部分の理由は話す話題がないといったところであろう。
 まだ薙刃は、彼が一緒にいることに内心驚いているようだし、ライルはただ彼女の後についているようなものだ。
 そんな状況の中で、うまく話題が生まれるはずもなく、ただ時間だけが無情に過ぎていった。
 そして、それから――数分後。
「チアリーディングはどうだったんだ?」
 意を決したように、ライルが口を開く。
 不意をつかれた薙刃は少々慌てながらも、それに答えた。
「う、うん。疲れたけど、結構楽しかったよ。先輩たちも、いい人ばっかりだし」
「そうか……。それはよかったな」
「うん……」
 途端に会話がピタッと停止する。
 こんな状況、薙刃にとっては気まずい以外の何者でもない。
 とはいっても、何か話題が考え付くわけでもない。


「あ……」
 それから、数分後。
 ようやく自分の家が見えてきたのを、薙刃はその目で確認する。
「どうした?」
 隣を進んでいたライルが、彼女の反応を不思議に思い、声をかけた。
「あ、うん。あたしの家、あそこだから……」
 そう言って、薙刃は自分の家をライルへと指し示すように、右手の人差し指でそれを指差した。
「そうか……。結構、近いんだな」
「そう、かな……?」
「……電車まで使って来る奴だって、いくらでもいるだろ。っていうか、自転車を使って来れるだけでも十分近いっていう要素に入ると思うんだが」
「そうかもしれないけど。……そういえば、ライルはどうなの?」
「俺は……って、お前の目にはこれが映らないのか?」
 そう言って、ライルは自らの跨っている自転車を指差した。
「あ、何だ……。ライルも、近いんだ」
「位置的には間逆だけどな」
「へぇ……」
 会話らしい会話。
 それが、ようやく二人の間に成り立った瞬間であった。
 呆れ気味に話すライルと、笑みを浮かべながらそれに反応する薙刃。
 はたから見れば、彼等は長年の友人のようであった。

「ありがとね。ライル」
 自宅の玄関に立って、笑顔を浮かべながら薙刃は彼に言った。
「……だから、そんなこと気にするなって」
「ううん。気にするよ。でも、ライルって、……最初見たときはどこか威圧感があったけど、やっぱりいい人だったんだね」
 満面の笑みを浮かべて、そう告げた薙刃を見て、不思議とライルは顔が紅くなるのを感じた。
「……失礼な奴だな」
 ぶっきらぼうにそう言って、彼女から視線を逸らす。
「あはは……。じゃあ、ライル。また明日、学校で会おうね」
「あ、あぁ」
 そう答えると、ライルは彼女から自転車ごと身体を背けた。
 彼女の声が背中越しにかけられる。
「ライル、お休み」
 まるで疲れを感じさせない彼女の元気な声。
 それを背中に受けながら、ライルは自転車のペダルをこぎ始めた。


「…………」
 彼女の家は、とっくに見えなくなっている。
 代わりに見えてくるのは、自分の暮らす家。
 自分が帰るまで、明かりが一つも灯ることがない、寂しさに包まれた家。
 理由は簡単だ。
 彼には、父親も母親も、もう――いない。
 家に帰っても、彼を待つものなど何一つとてない。
 
 それが当たり前だと思ってきた。




 彼の心を覆い尽くすのは、消し去りきれないほどの寂しさの心。

 それを癒せる人間は――


 いるのだろうか。


続く