ライルの災難

それはまだ皆が眠りから目覚めてすぐの早朝のことだった。
 厨房で一人働くライル。その背後にひっそりと一人の影が近づく。

「ライル様…」
「迅伐か。何…」
 声をかけてきた迅伐へと体を向けたライルは…思わず息を呑む。
 無理もない、その手には…一本のビン。
 そして、その中には…怪しげな色の、いや、もはや口では言い表せないほどの色をした液体が収まっていた。

 ライルは体を引かせる。だが、迅伐も一歩ずつ近づく。
「何だ、その見るからに危なそうな物体は!!」
「体にとってもよくきく薬…」
「うそつけっ!?」
 ライルは一歩ずつ後退する。だが、迅伐もジリジリと一歩一歩近づいてくる。


 と、そこへ…
「ライルくん、今日は何をすればいいのかしら? って、あら? 迅伐も来てたの?」
「鎮紅ちゃん」
「し、鎮紅…」
 偶然にも、そこへ鎮紅が現れた。
 途端に何やらとてつもなく嫌な予感が、ライルの体を駆け巡った。
 そんなこととは露知らず、鎮紅はこちらへと歩み寄っていく。

「鎮紅ちゃん、これ」
 そんなとき、迅伐が鎮紅にあの怪しい液体の入ったビンを渡した。
「こ、これは一体…な、何かしら?」
 さすがの鎮紅も、その色に唖然としている。
 まぁ、無理もないだろう。
「体にいい薬…」
 ポソリと迅伐は鎮紅に言う。
「そ、そう…」
 冷や汗を浮かべながらも、それをどう取り扱おうか…と鎮紅は悩んでいるように捉えられた。
 鎮紅は、パカッとビンのふた代わりになっていたコルクを外して中の匂いを嗅いでみる。
 特に…匂いというものは感じ取れなかった。
 うーん…と鎮紅は首を傾げる。


 だが、先ほどからライルはもはや身の危険しか感じていなかった。
(迅伐のやつ…わざと鎮紅に渡したな!?)
 そして、ライルの予感は的中する…。

「あ、それよりも、ライルくん…」
 こちらに一歩を踏み出した鎮紅の足が、厨房の床のわずかな出っ張りに引っかかり…
 そして…
「あっ…」
「あっ…」
 まるでコマ送りのように時が進んでいく…。


 前のめりに倒れ出した鎮紅の手から、あのビンが離れる。
 そして、慣性の法則に従ってビンは…直線方向にいるライルへと真っ直ぐ飛んでいく。
 いくら予測はしていたライルでも、実際に起こるとはさすがに思っていなかったのか…反応がいくらか遅れてしまう。
 さらに”偶然にも”、鎮紅はビンをコルクで閉め忘れていた。そのため、中の液体が…ビンの先から漏れ始める。当然、目標は直線距離

にいるライルでしかない。
 その結果…

「……」
 ビンの直撃は何とかやり過ごしたライルだったが、液体の直撃は避けられなかった。
 ライルの顔は、あの怪しい液体塗れになってしまう。
 そして、思わず…液体をいくらか飲み込んでしまった。

「あ、あら……」
 鎮紅の顔に、冷や汗が浮かぶ。
 どう対処していいのか悩んでいるのだろう、いや…ひょっとしたらもうどうやってここから逃げようか考えているかもしれない。

「……」
 そして、迅伐の顔にわずかながらに笑みが浮かぶ。
 それは、してやったり…と言わんばかりの笑みだった。

「鎮紅…迅伐…。お前ら……」
 ライルの怒りゲージはもはや爆発寸前。
 鎮紅は一歩ずつ引きながらも、必死に言い訳を考える。
「ら、ライルくん。とりあえず、落ち着きましょ? ね? …そ、そう。あの段差が悪いのよ! あんな段差があるから…」
 だが、ライルの耳には届かない。
「…鎮紅、お前は今日のお菓子はなし!!」
「そ、そんなぁ……酷いわっ! ライルくん! 私だけお菓子がないなんて!!」
 ライルは、軽やかに鎮紅の訴えを無視。
「うぅ……」
 鎮紅、相手にしてくれないことにショックを受ける。

「そして迅伐…。これから1ヶ月は変な薬を作るな!!」
「……どうして?」
「皆に危険が及ぶからだ!!」
「……」
 ライルの言葉にシュンッと迅伐はショックを受けたような反応を示す。
 だが、ライルは気にしない。


「はぁ……」
 二人が厨房から去って、ライルは小さくため息をつく。
「酷い目にあった…」
 少しばかり迅伐のことを恨みながら、ライルは作業に戻る。
 それにしても…
「あの薬…特に何も起こらないな…」
 先ほどから何かしら反応が出るものだろうと思っていたライルだったが、それに反してライルの体には何も異常は起こっていない。
 ひょっとして…本当にいい薬だったのか? と一瞬考えるが、色からしてそれはありえないので、即座却下した。

 と、そこへ…
「ライル! ちょっといい?」
 今度は、薙刃か…
 ライルはそう思いながら、薙刃のほうへと体を向ける。


「何だ? 薙刃」
 そうライルが尋ねると、薙刃は言いにくそうに顔を俯かせた。
 訳が分からない…、いつもだったら、そう考えているはずだった。
 だが、ライルはそんな薙刃の仕草を見て…かわいい。素直にそう思ってしまった。
 すぐさまライルは、はっ!と自分の考えていたことに気付き、自分の頭からその感情を追い出した。
「パンの作り方を教えてほしいんだ。ダメ…かな?」
「え?」
「あ、ライルが忙しかったら別にいいんだよ? 今度でいいから」
 慌てたように薙刃は言う。
 そんな健気な態度が…一つひとつライルの心に動揺を与えていく。
「い、いや、そうじゃなくて…。どうして、俺なんだ? 迅伐に頼めばいいだろ?」
 おかしい…今日の自分はおかしい…。
 さっきから薙刃の仕草や言葉の一つひとつが気になって仕方ない。
 ひょっとして俺は、薙刃のことを…好きになって…


「ううん。…ライルがいいんだ…」
 薙刃の言葉に、俺の中の理性という名の防壁が揺らぎはじめる。
 ライルがいい…。それはつまり…
(ッ…!! 何を考えてるんだ。俺は!!)
 そう、自分に言い聞かせる。
 …言い聞かせているのに、心は…言うことを聞いてくれない。


「だって、ライル…。パン作りは迅伐よりも上手だし、それに弟子もいるぐらいだから、教え方がうまいんだろうな! って思って」
 そう薙刃はライルに伝える。
 彼女がライルを頼ったのは決して特別な感情があるから…というわけではなかった。
 いや、0というわけではない。だが、彼女自身はまったくそれを自覚してはいなかった。
 つまり、今回の頼みは…ただライルを頼りにしてのことだったのだ。
 だが…その薙刃の言葉は、ライルの耳には届かない。
「やっぱり…ダメ?」
 薙刃は不安そうにライルを見つめた。
 だが、そんな彼女の行為が…ライルの理性を崩すことになる。


 …まずい。とライルは思った。
 不安そうな薙刃の瞳。
 それを見つめ返しているだけで…限界だった。
 そして、次の瞬間には…薙刃を片手で抱きしめ、厨房の壁に彼女を押し当てていた。


「ら、ライル?」
 ライルの突然の行動に、薙刃の思考はまったく追いつかない。
 分かることは、ライルの体がすぐ前にあって、背中には冷たい感触が感じられることぐらい。
 腰に回された腕は思ったよりも力が強くて、逃れることなんて…出来ない。
「薙刃が…悪いんだ」


「……え?」
 ライルの呟きに、薙刃は今度こそ本当に訳が分からなくなった。
 ライルは続ける。
「薙刃が…そんな目をするから…」
 そう言うと、ゆっくりとライルの顔が薙刃の顔に近寄ってくる。
 

 いくら鈍感でそういう関係にあまり知識のない薙刃でも、ライルが何をしようとしているのかぐらいは分かる。
 ライルは…私と…
 その答えが見つかったのか、それとも生まれ持つ生理現象なのかどうかはわからない。
 しかし、薙刃はライルを受け入れるかのように…目を閉じた。


「な、何やってるんですか!?」
 と、そこに現れたのは…リタだった。
「あ、いや…これは…」
 三人の間の時間が…止まる。


 結局、その後リタの口からの事実によって俺には”ケダモノ”というあだ名がついた。
「…ライル様は、ケダモノ…」
「…お前の薬のせいだろうが!? 迅伐」
「…新しい薬…」
「もう飲まないぞ!!」
 だが、変わったことと言えば…
「ライル! 今日もパン作り教えて!」
「い、いや…俺はまだ迅伐に話が…」
「…やっぱり…ダメ?」
「わ、分かった! 分かったから!! 迅伐も小さく笑うな!!」
「じゃあ、ライル。早く作ろ?」
「あ、あぁ…」
 薙刃が俺をからかう新しい遊びを見つけたことと…少しだけ俺と薙刃の距離が縮まったことぐらい。
 後者に対しては…”いつか”迅伐に感謝する日が来るかもしれないな…。
 そう、ライルは思った。

終了

あとがき

…ということで85000HITのキリ番小説でした。ヤギさん、満足していただけたでしょうか? 私は…とても不安です。
獣化…ということで迅伐の薬を用いたネタにしてみました。…うわぁ、展開無理やり? と反省する部分が…いくつもあります…。申し訳

ありません(涙)
これからもがんばります、そして…これからも宜しくお願いします。ヤギさん