「むぅ……」

 イライラとしたムードを取り巻きながら、薙刃は居間で休憩をしている。

 ここ数日、薙刃の機嫌は、いつも一緒に生活している彼らなら一目瞭然なほど、悪くなっていた。

 その大部分の理由が、今、彼女の目線の先にいる人物のせいである。

 

 

「鎮紅、どうだ? 売上の方は」

 厨房から様子を見に出てきたライルが、店先で働く鎮紅に声をかける。

「中々よ、ライルくん。この様子だと、今月は黒字は間違いなしね」

 キランッと目を輝かせて、鎮紅は親指を立てる。

「そ、そうか。じゃあ、ひとまず安心だな」

 そんな彼女の様子に気圧されながらも、ライルは店内に視線を向ける。

 そこで、視界の中にパンを並べる迅伐の姿があることに、彼は気がついた。

「って、迅伐。お前は……何をしてるんだ?」

「……」

 何か嫌な予感がして、ライルは迅伐に尋ねたが、彼女は何も反応することなく、パンを並べ続ける。

「って、答えろよ!? 絶対それ、お前のパンだろ!」

「……違う」

 彼女は、首を横に振る。だが、しばらくして、パン屋の中には微妙な匂いが立ち込めはじめ……。

「この匂い……、やっぱりお前の作ったパンだろ!」

「……違う」

「違わんわ!! いいか? 今すぐそれを……」

「まぁまぁ、ライル。それぐらいにしてあげても、いいんじゃない?」

 『片付けろ』と言おうとした彼の元に、マリエッタがやってくる。

「お前は、こいつの作ったパンの恐ろしさを知らないから、そんなことが言えるんだ……」

「……そんなに酷いの?」

「あぁ、あれはある意味、殺人兵器で……」

「……マリエッタちゃん、食べる?」

 そんなライルの言葉を遮るかのように、迅伐はマリエッタの近くまで近づき、手に持っていた一つのパンを、彼女に差し出す。

 そこから漏れる独特な匂いによって、マリエッタは少し顔を顰めた。

「す、すごい匂いね……」

「……今日、採れた新鮮な草を使ったから」

「やっぱりお前の作ったパンだったんだな……」

 マリエッタに迅伐がパンを勧めている間に、ライルはそそくさとパンのバスケットを手に取る。

「……あ」

 今さらながらに迅伐が気付くが、もはや遅い。

「没収」

 そう言って、彼は厨房へと向かおうとする。

「ライル、何してるの?」

 様子を見に来たリタが彼と、ちょうどその途中で鉢合わせになる。

「リタか。いや、今からこのパンを捨てに……な」

「形は、いいみたいだけど」

 バスケットの中にあるパンを、覗き込むようにしてリタは眺める。

 確かに、料理が上手な迅伐が作っているだけあって、形はかなり優秀なものだ。

 だが

「あぁ。形は、いいな。味は、保障できないけど」

「そうなの?」

 そう尋ねるリタに、ライルは迅伐を指差しながら『あいつが作ったんだ』と答えた。

 一度、説明を受けているリタは、それに対して苦笑を浮かべる。

「分かったか?」

「うん。妙に、納得出来たわ」

「じゃっ、そういうことだから」

 そう言って、彼は厨房の中へ戻った。

 

 

「ライル……」

 彼女が呟くのは、愛しき彼の名前。また彼という表現は、恋人としての『彼』という意味である。

 彼は鈍感だから気付いていないだろうが、鎮紅にしろ、迅伐にしろ、マリエッタにしろ、リタにしろ、少なからず彼女たちから好意を寄せられている。

 だけど、それでも……彼の隣には、いつでも自分がいたい。

 だからこそ、彼女たちと仲良く話している彼を見ていると、妙に心がムカムカしてしょうがない。

「……よし!」

 そんな彼女の中で、一つの決意が固まった。

 少し前に鎮紅が、『効果絶大よ!』と言っていたから、確信が持てる作戦。鎮紅は、ライルのことに関しては敵だが、ここはあえて彼女の手を借りることにした。

 

 

「今日も特に異常なし……っと」

 さらさらと、羽ペンで日記に今日の出来事を記す。

「まぁ、これくらい……か」

 ライルは、パタンとつけている日記を閉じた。そして、蝋燭に灯っていた火を消そうとして……

 コンッ、コンッと、ドアをノックする音が、彼の耳に聞こえてくる。

「何だ?」

 椅子から腰を上げ、ライルはドアをゆっくりと開ける。

 そこには――パジャマ姿の薙刃が立っていた。

「よかったぁ……。ライルが、起きてた」

「薙刃? どうしたんだ? こんな時刻に」

 そこまで言って、ふとライルは彼女の右脇に、枕が抱えられていることに気付く。

「うん……。何か、眠れなかったから……一緒に寝てほしくて」

「……は?」

 その言葉に、思わずライルは声が漏れてしまった。

 とりあえず、彼女を廊下に置いておくわけにもいかないので、彼は自分の部屋へと、彼女を招き入れる。

 

「ライル。ダメ……?」

「いや、ダメ……? と、聞かれても」

 倫理的にまずいだろう……、と、彼は考える。

 しかし、そんな彼の気持ちに気付かないのか、薙刃は彼の両手を握って、再度尋ねてくる。

「迷惑……かな。あたし」

「いや、決して、そういうわけじゃ……ないんだが」

 内心、ドキドキしながらも、ぶっきらぼうにそう答えたライルは、ふと自分の失敗に気づく。

 しかし、気付いたときには、薙刃の顔はパァーッと明るくなっていた。

「じゃ、お邪魔しまーす」

 そう言って、薙刃はライルのベッドに潜り込んだ。

「……はぁ」

 それを見て、ライルは小さくため息をつく。

 心配すべきことは、自身の理性の崩壊だった。

 

 ベッドには入ったものの、ライルは薙刃から視線を逸らし、ジッと天井を見つめていた。

 とは言えども、元々ライルのベッドは大きいわけでもなく、彼女の腕や足などが自分の腕や足と絡み合っている。そのためか、意識しないようにするというのは、不可能に近いものだった。

「ライル、手、握ってもいい?」

 すぐ左隣から、そんな薙刃の頼みが聞こえた。

 それに戸惑いながらも、彼は答える。

「あ、あぁ……」

 そう答えると同時に、彼女の手と自分の手がしっかりと絡みあった。だが、ここでも彼は、自分が失敗を犯したことに気がついた。

 そう――気になってしょうがないのだ。

 そのせいで、ライルの心拍数は少なからず上昇し、気恥ずかしくなって頬も少し紅く染まった。

「…………」

「…………」

 二人の間に沈黙が流れる。ライルにとっては、それが気まずく感じられてたまらない。

 そんなうちに、隣の薙刃から落ち着いた寝息が聞こえてくるようになる。

(……寝たのか)

 それを確認して、ライルは少し緊張感が緩んだのか、小さくため息をついた。

 だが……。

「うーん……」

 薙刃の腕が、ライルの腰に回され、それと同時に彼女の身体が、ライルとピッタリ密着する。

「ッ……!?」

 驚きのあまり、まるで呼吸が一瞬止まってしまったかのような錯覚に彼は陥る。

 だが、驚きの声を上げるわけにもいかず、ライルには黙ってそれを受け入れることしかできない。

 唯一幸いだったことと言えば、仰向けになっていたせいか、密着する部分が少ないということだけだ。

 だが、それでも……パジャマごしに彼女の身体から色々なものが、ライルに身体に直に伝わってくるのには変わりはないのであって。

「ライル……」

 幸せそうに笑顔を浮かべる薙刃の顔を見ながら、ライルはゴクリと息を呑む。

(……勘弁してくれ)

 夜はまだまだ始まったばかりだ。それを耐え切る自信は……ないに等しい。

 

 

(どう……かな?)

 ライルが悶々と悩んでいる間、薙刃は実は起きていた。

 これこそ、鎮紅の作戦『パジャマ姿でドッキリ!』なのであるが、目を瞑っている以上、それがちゃんと効いているのかどうなのか、薙刃には確認することは出来ない。

 彼女に分かったことといえば、ライルが先ほど息を呑んでいたことぐらいだ。しかし、彼は何の行動も起こそうとはしない。

(むぅ……。じゃあ、今度は……)

 彼女は、次の作戦に移る。

 彼の腰に回していた両腕を、ゆっくりと上げていき、やがて彼の首に到達すると、優しくそこに自らの腕を回した。

 それと同時に、彼の腰に自らの両足も回しこんだ。

 

(おいおいおいおいおいおいおい……)

 彼女の顔がすぐ隣にある。彼女の身体がこれ以上ないほど、密着している。

 そればかりか、密着してきた際に、自分の左手が彼女の身体の下に置かれてしまっていた。

 これでは、まるで自分が彼女を抱きしめているようではないか。

(薙刃って意外と……。って、違う! 何を考えてるんだ俺は!!)

 頭が振れるのだったら、目が回りそうなほど振って、自分の考えを消し去っていただろう。

 と、その瞬間……

「んっ……」

「ッ……!?」

 薙刃の唇が、自分の頬に触れた。

 ただでさえ高まっていた心拍数が、これ以上ないほど急上昇を遂げてしまう。

(落ち着け! 落ち着け! 落ち着け! 俺!)

 自問自答を繰り返しながら、必死に冷静さを取り戻そうとするライル。

 だが、必死に冷静さを取り戻そうとしても、頭にはその感触が残ってしまう。

 そして、ライルがおかした最大の失敗――それは

 驚きのあまり、彼女の方へと顔を向けてしまったことであった。

 彼女の柔らかそうな唇、そこから漏れる吐息、規則的に動く身体。

 ゴクリと生唾を飲み込む。それは、今までとは違った緊張。

(いい……のか?)

 寝込みを襲うのは、人間としてやってはいけないことだ。だが、分かっていても、そんなことまで考えてしまう。

 それに彼女の行為は、寝相が故だ。意図的にやったものではないというのに。

 それでも、本能が、理性が、自分の身体を後押しする。

 そして……彼は、彼女の背中へと腕を回し、目を瞑った。

 

(これでも……ダメかな)

 自分なりに勇気を振り絞って、彼の頬にキスまでした。それでも、彼は何にもしてはこない。

 これだけアピールしているのだから、せめて何らかの反応をしてほしいものなのだが。

 そんなことを考えていたときだった。

(ん……?)

 彼の左腕が、自分の背中に回される。

(何だろ?)

 彼の行動を疑問に思った次の瞬間……

「んっ……!?」

 彼の唇が、自分のそれと強く押し当てられる。

 まさか……と、薙刃の頭に動揺が襲う。

 彼には行動を起こしてほしかった。でも、それはあくまでも、抱擁などと比較的程度の軽いものを予想していたつもりだ。

 それに、彼に『寝込みを襲う』ということを行うような勇気はないと、薙刃は勝手に決め付けていたのだ。

 しかし、それが裏目に出る。

 身体を仰向けにされ、彼の右手がしっかりと自分の左手を掴み、彼は薙刃の上に覆いかぶさる。

 それでも、彼の行為は止むばかりか、より大胆になっていく。恐らく、徐々に本能のままに動かされているのだろう。

 

(……どうしよう)

 薙刃は考えていた。

 恐らく今目覚めれば、ライルは我に返るに違いない。

 だけど……このまま放っておいたら、彼が一体どんなことをするのか。そんなことが知ってみたかった。

 本当にまずくなったら、起きればいい。そう結論付けて、薙刃は狸寝入りを続けることにした。

「薙刃……」

 唇が離れて、そう名前を呟かれる。

 そして、彼の指がそっとパジャマ越しの胸の上に置かれた。

(……ッ!)

 何をされるのか一瞬で判断して、薙刃は声を漏らさまいと口をきつく縛った。

 そして……彼の指がゆっくりと動き始める。

「ん……っ…」

 ピクッと身体を震わせ、彼女の口から小さく声が漏れる。それがライルの心を、より急かした。

「可愛い反応だな……」

 そう呟かれて、着ているパジャマの上下を除いた三つのボタンを、ゆっくりと外される。

 そして、彼の目の前に現れる彼女の綺麗でまっ白な肌。

 押さえ切れなくなったように、彼の手がそのパジャマの隙間からゆっくりと彼女の胸に直に触れる。

「んん……っ…」

 彼女の身体が震え、彼の手がピタッと動きを止める。

 だが、しばらくして、元のように落ち着いた呼吸に戻ったのを確認すると、彼はゆっくりと手を動かし始めた。

「あ……ん、っ……」

 熱を帯びたような彼女の声が、ライルの本能を刺激する。

 寝込みのため、出来ることが限られている。それがもどかしくて、堪らない。

 そんな気持ちも混ざってか、彼の手に込められる力が、少しずつ強くなっていく。

「ふぁ、っ……ん…っ…」

 絶え間なく漏れ続ける彼女の声。彼女の身体は火照ったように温かくなり、その鼓動は……と思ったところで、ふと彼は気付く。

 彼女の反応が、まるで起きている時のような反応な気がしてならないということに。

「薙刃。お前、ひょっとして……起きてるのか?」

 その瞬間、彼女の身体がピクッと反応した。

 

(あっ、……ダメ…)

 声を耐えるのも、もう限界だった。

 体温が上昇し、頭が少しずつボーっとし始める。どうやら自分の身体も、おかしくなってきたらしい。

 このままでは、まずい……。そう思ったときだった。

「薙刃。お前、ひょっとして……起きてるのか?」

(ッ……!?)

 バレたと思って、ビクッと思わず身体を震わせてしまう。

 それと同時に、彼の動きがピタッと止まった。

 仕方なく、薙刃はゆっくりと目を開けた。

「うん……ゴメンね」

「……いつから?」

「最初から……」

「じゃあ、今までのこと……」

「……うん。知ってるよ」

 ライルの頭から、サーッと血の気が引いていくのが分かる。

「あ、いや、その……悪かった」

「ううん……。あたしも、試してゴメンね」

「試した?」

「うん。……ライルが、私のこと、どう思ってるか知りたくて」

 あぁ……と、ライルは納得したように頷き、彼女の髪を撫でる。

「…そんなこと心配するな。俺は……」

 そう言って、軽く彼女に口付け……

「お前以外、好きにはならない」

「……ライル」

「な、何て……な」

 照れくさそうに言うライルに、薙刃はクスッと小さく笑った。

「……それよりも、服着てくれ。何ていうか、その……」

 そういわれて、薙刃は目を落とす。ボタンは外されたままだった。

 とは言っても、脱がしたのは彼だというのに。

 ゆっくりとボタンを付けながら、薙刃はライルに尋ねる。

「ライル、責任……とってくれるよね?」

「……は? 責任?」

「うん。いくら何でも、寝込みを襲ったもんね」

「……は、はい」

「……じゃあね」

 うーんと悩んで、薙刃は言った。

「今度は、私がライルの寝込みを襲ってもいい?」

「……はい?」

 いや、事前に連絡されても……。というか、彼女は今なんと言った?

 驚きのあまり、ライルは目を白黒させている。

「ふふ……。覚悟しておいてね。ライル?」

「……本気、か?」

「うん」

 彼女は笑顔でそう答える。それが恐ろしいこと、この上ない。

 とりあえず、目の前の脅威は去ったものの……

(ドアに鍵でもかけておくべきかな)

 また次の問題に直面してしまったライルなのであった。

 

 

 あとがき

 さて、95000HITの小説ということだったのですが……、『薙刃の嫉妬』最初のほうしか関係ないじゃん!(今さらか)

 しかも、ちゃっかり年齢制限小説になっちゃってるし! ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 約2ヶ月ぶりの小説なので、若干腕も落ちた気がします。また、『強気の薙刃?』ですね。これは。

 …満足していただければ幸いかと思います。……それでは、また。