その瞬間……一人の少女――薙刃が、嬉しそうに立ち上がった。
「やったー! あたしの勝ちだね!」
 彼女の手は固く拳を握っていた。つまり、じゃんけんで言えば、グーを出したわけである。
 かたや、二本の指を出したまま、悔しそうな表情を浮かべている迅伐の表情がそこにはあった。
「……」
 しかし、負けた以上は何一つ口出しできるわけでもなく、迅伐はすぐさま無表情へと表情を変える。しかし、オーラは隠し切れないのであって。
「迅伐……。しょうがないけど、これが勝負なのよ」
 そんな彼女の心境を読み取ったのか、すでに負けていた鎮紅が迅伐の肩に手を優しく置く。
 というか、ライルの意思は無視なのか? と、思わざるを得ないが、皆が皆、そんなことをまったく考えてすらいないようなので、まぁ、いいことにしよう。

「……」
 ライルが目覚めるのを今か今かと、待ちわびる薙刃。一応、視界に入らないようにということで、鎮紅たち他四人は、別室で待機してもらうことにしておいた。
「ん……」
 そんな時、規則的に動いていた彼の呼吸が、わずかに変化を示した。もうそろそろ起きるであろう合図のようなものだろう。
 それと同時に、薙刃の身体にも緊張が走る。真実にしろ、嘘にしろ、この部屋には今は自分とライルの二人だけしかいないのだから。
 息を呑んで、彼が目を覚ますのを待つ。

 やがて、ライルの目がゆっくりと開き始めた。
「ん……。薙刃……か?」
 彼の目が、ゆっくりと目の前に居座る薙刃の姿を確認する。
「ライル、大丈夫なの?」
 いたって平静を装って、薙刃はライルに尋ねる。惚れ薬が本当かどうかを確かめたいのも山々なのだが、まずは彼自身の身体に異常が起きていないかを知らなくてはならない。
「あぁ……。って、どうして、俺がここにいるんだっけ?」
「ライル、覚えてないの? 厨房で倒れてたんだよ?」
「あー、そういえば、迅伐に薬を飲まされたんだったな……。それで、急に視界が暗くなって……」
 彼は何事もなかったかのように、薙刃の質問に答えつづける。
 やはり惚れ薬というものは嘘だったのだろうか? と、薙刃は内心考えていた。確かにそうだとすれば、ちょっと残念な気がするが、結果的には彼が無事なので、いいことには変わりない。
「あ、じゃあ、みんなを呼んでくるね」
 そう言って、薙刃は立ち上がろうとした。
「あっ、ちょっと待て」
「ん? 何、ライ……」
 振り返ろうとした矢先、自分の身体に背中越しに彼の腕が回されて……。回されて?
「……え?」
 彼のその行動を把握した瞬間、薙刃の動きがピタッと止まった。
 つまり、その……今の状況は……
 彼に、後ろから抱きしめられていることになるわけだ。
「薙刃」
「な、何?」
 すぐ後ろから聞こえるライルの声に、薙刃の心拍数が急激に上昇し始める。
「お前、何か変わったな」
「え? そう……かな?」
「あぁ……。何か……」
 腰に回された腕に込められる力が、少し強くなった……気がした。
「可愛くなった」
「……あ、ありがとう」
 彼にそう言われたことが、嬉しくて、恥ずかしくて、薙刃は少し顔を俯かせた。
 恐らく、これが惚れ薬の効力なのだろう。悪いことをしたとは思っても、やはり顔が少し緩んでしまう。
「ライル、あたしね、ライルのこと……好きだよ」
 どうせ惚れ薬を飲んでいた間の記憶など、あまり残らないだろう。どうせなら、告げておこうと薙刃は決心し、背中の彼にそう言い切った。不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
「あぁ、俺も……お前のことが」
 そう耳元で囁かれながら、ライルの手によって自分の身体がゆっくりと床へと下ろされ……。
「……あれ?」
 自分自身の視界がおかしくなってしまったのではないかと、一瞬錯覚を覚えてしまった。何故なら、目の前にはライルの顔で、それで背中は床に伏せられている。……ということは、つまり……。
「好きだ」
 彼に――押し倒されているということではないだろうか?
 そんな彼女の戸惑いとは裏腹に、彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
(ちょ、ちょっと待って…!)
 惚れ薬といえども、所詮は自分に好意を持たせるとしか考えてはいなかった。
 しかし、冷静になって考えてもみれば、好意を寄せられるということは、無論、こういう行為に及ぶ可能性もあるというわけで……。
 ライルの唇が近づく中、薙刃は覚悟を決めたように、目をきつく瞑った。
 10cm、9cm、8cmと徐々にその間隔は縮まり、やがて……薙刃にもライルの気配が感知できる位置まで、彼の身体は近づいていった。
 薙刃は生唾を飲み込んで、その瞬間を待つ。
「……」
「……」
「……」
 しかし、数秒経っても、それはやってこなかった。
 さすがにおかしいと思って、薙刃はゆっくりと目を開ける。
 そこには……
「な、薙……刃」
 顔を真っ赤に染め、戸惑いの表情を浮かべたライル・エルウッドの姿がそこにはあった。
「ライル、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない! どうなってるんだ、これは!?」
 口をパクパクと動かしながら、今の状況の説明を求めるライル。だが、後少しでライルとの『それ』を逃した薙刃にとっては、面白いはずもない。
「こういうことだよ! ライル!」
 半ばやけくそ気味で、薙刃は彼の首に自らの腕を回し、一気に力を込めて自分の顔の近くへと彼の顔を持っていく。
「なっ……」
 そして、驚いている彼の唇に、自分の唇を重ねた。
「ッ……!?」
 それと同時に、彼の身体がビクッと震え、彼の動きも止まってしまった。
「えへへ……。ライル、満足した?」
「お、おおおおお、お前、何して!?」
 にっこりと笑顔を浮かべる薙刃。惚れ薬だろうが、何だろうが、やっぱりライルはライルだ。
 それを確認して、薙刃は笑った。

薙刃編、終了