バレンタインデー ライ薙の場合

「そういえば、そろそろバレンタインデーだな…」
 ライルがポツリと小さな声で呟いた。
 それを、薙刃は聞き逃さない。
「ばれんたいんでー? ライル、何それ?」
 薙刃にとっては、聞いたこともない単語だった。
「あぁ、バレンタインデーっていうのは、イエスズ会で聞いた話なんだが、違う国では、こっちでいう如月の14日を、バレンタインデーというそうだ」
 イエスズ会は、西欧の文化を取り入れたもののため、バレンタインデーについて情報は伝わっているが、ずっと日本に住んでいる薙刃たちにとっては、まったく知らないことだった。
「そうなんだ…。それで、その日は何かをする日なの?」
「あぁ。その日は、女性が…」
 そこまで言って、ハッとライルはバレンタインデーがどういう日なのか気付き、即座に言葉を切った。
 無論、薙刃はそれでは納得できない。
「女性が? 女性が何をするの?」
「あ、いや…」
 ライルは、バレンタインデーを話題に出してしまったことを後悔した。
 別段、バレンタインデーは決して怪しい日ではない。
 ただ、薙刃がその意味をどう捉えるかが不安なだけだった。
「そこまで言って、教えないなんてずるいよ! ライル」
 拗ねたような口調で、薙刃はライルに言った。
「…うぅ。分かった…。教える」
 純真な薙刃に言ったところで、何かが変わるわけでもないだろう。
 ライルは、そう判断した。
「バレンタインデーは、女性が…」
「うん」
 ライルの言葉を心待ちにしているかのように、薙刃はライルの言葉一つ一つに頷く。
「女性が、自分の好きな男性に自分の思いを伝える日だ」
 すると、薙刃は感心したように
「そうなんだ…」
 と、答えた。
(ほら、やっぱり何もない…)
 ライルは、そんなことを思っていた。

 そして、やがて何事もなく14日になった。
 ライルは、いつものように早く起きる。
 そして、パン作りの準備を始めるため、工房へと足を運んだ。
 そして、工房に着き、そのドアを開けた瞬間…。
 そこには、薙刃がいた。
「え? 薙刃…、どうして?」
 薙刃がここにいる意味が分からない。
 分かるのは、薙刃は自分よりもかなり早く起きていたということだけ。
「まだ早いぞ。もう少し寝てた方がいいんじゃないか?」
 そう声をかけると、薙刃はポツリと呟いた。
「…今日、14日だよね?」
「あ、あぁ。そうだ。って、そんなことよりも、少しは寝ろって…」
 そう答えると、薙刃はゆっくりとライルに歩み寄っていく。
 ライルも、その雰囲気の違いに少なからず気付いた。
(どうしたんだ? 薙刃の奴…)
 やがて、薙刃はライルのすぐそばまでやってくる。
「今日は、好きな男性に自分の思いを伝える日…なんだよね」
 薙刃は、その言葉が真意なのかを確認するかのように、ライルに尋ねた。
 そして、ゆっくりと薙刃は顔を挙げ、ライルの目を見つめる。
 その目は、数秒経ってもそらされることがなく、ただただライルの目をジッと見つめていた。
 その顔は、まるで上気したように赤い。
 ライルも、そんな薙刃から視線を逸らすことが出来ない。
「な、薙刃?」
 ライルは上ずった声を上げる。
 そんなライルに、薙刃はポツリと呟く。
「…今日なんだよね。バレンタインデーっていうのは」
「あ、あぁ…」
「…よかった。ずっと待ってたんだ…」
 何を? なんて薙刃にもはや聞けなかった。
 薙刃が何を言おうとしているかなんて、すぐに分かる。
 14日まであと、一週間近く。
 そして、それが運命の日になるかもしれない…。
「ライル…」
「何だ?」
 照れた様子で、薙刃は言う。
 ライルも、そんな薙刃を可愛く思う。
 と…ライルは後ろから何やらいくつかの視線を感じた。
「私…ライルのこと…す……」
「待て!」
 ビクッと薙刃は身体を震わせ、不安そうな表情を浮かべる。
「ライル、どうして…」
「違う! そうじゃなくて! …マリエッタ、鎮紅…そこにいるだろ!」
 その瞬間、ガタガタガタガタと何かが走って去っていく音が、二人の耳に届いた。
「ほら、いただろう」
「本当だ…。全然、気付かなかったよ」
 二人とも照れながら、お互いに笑いあった。
 そして、薙刃はその笑顔のままに再び言葉を続けた。
「ライル、改めて言うね。私…ライルのことが、好きだよ…」
 言い切った後、薙刃の顔からは笑いが消え、変わって真剣な表情でライルを見つめていた。
 ライルは、フッと微笑んで、当たり前のように答えた。
「俺も好きだよ。薙刃のことが…」

バレンタインは、思いを確認する効力もあれば、思いを伝える効力も持つ。この二人は後者…に分類される。
この二人の絆は、強く強く結ばれただろう。