「……やったわ」
 顎に手を置き、嬉しそうに腕をプルプルと振るわせる。その瞬間、決着はついた。
「私は、やった。やったのよーーー!」
 その腕を上げて喜ぶ女性――鎮紅は、目頭に涙を浮かべてはいないが、浮かべそうな勢いで喜んでいた。
 その理由の一つとしては……
「ドジッ子脱出よ!」
 という理由である。彼女としては、幸運な薙刃と迅伐に勝てたことが相当嬉しいのであろう。なにやら主旨が変わっているような気もしてならないが。
「負けちゃった……。でも、しょうがないよね…」
 残念そうな表情を浮かべながらも、薙刃は無理やり納得させようと、笑顔を浮かべた。それはまるで鎮紅を祝福するかのように。
「がんばるわ」
 その意気込みを胸に、鎮紅はそれに笑顔で返した。

「平常心よ、平常心……」
 ライルが眠るすぐ隣で深呼吸をして、必死に心を落ち着かせようとする鎮紅。
 とはいえども、時間が経つにつれて落ち着かなくなってくるのは仕方なく、二人きりという状況を理解すればこそ、それが落ち着くはずもない。
「いつもの私なら、大丈夫よ…」
 そう自分に言い聞かせる……が、はっきり言えば、いつもの自分がどうだったかなんてことも、今になってはすぐさま思い出せない。
 そんなうちに、ライルの身体がピクリとわずかに動く。それと同時に、落ち着いていた呼吸も、少しずつ乱れ始め、彼の意識が戻りかけていることをそれは表していた。

「ふぅ……」
 それに気付き、鎮紅は一度大きく息を吐く。これで、少なくともわずかに落ち着けるはずだ。

 そして、ライルは――目を覚ました。
「ん……? 鎮紅……?」
「目が覚めた? ライルくん」
 目を覚ましたライルの目の前には、笑顔を浮かべる鎮紅の姿。
「えっと、俺は……」
 倒れた時の記憶があやふやなのか、何かを確かめるようにライルはキョロキョロと目を動かす。
「ライルくん、厨房で倒れてたのよ」
「そうだった……か?」
「そうよ。覚えてないの?」
 顔を上げて、必死に自分の中の記憶から適切なものを探しているライル。やがて、何か心当たりがあったのか、少し目を見開かせて彼は言った。
「そういえば、迅伐に……変なのを飲まされて…」
「そうそう。そうなのよ」
 どうやら彼の頭にも、そこの記憶はうろ覚えながらに残っている様子で、鎮紅はそれに首を振って頷いた。その記憶が確かなことを、彼に知らせるためだ。
「……それで、鎮紅は、どうしてここにいるんだ?」
「それは……ライルくんが、心配だった…から」
 もっともらしい理由をつけて、ライルに自分をアピールをする。もし、ライルが惚れ薬を本当に飲んでいるのだとしたら、この行為にはまったく意味のないことになるが、もし違ったとしても、今の状況は鎮紅にとって絶好のチャンスでもあった。
「そっか…。悪かったな…」
(……あら?)
 彼の反応を聞いて、鎮紅は少し違和感を感じた。
 いつもの彼なら、必死になってその言葉を否定するはずだ。それなのに、今回はそれを受け入れるばかりか、感謝の言葉も言っている。
 これは……ひょっとして、本当に……
「鎮紅」
 考えに浸っていた彼女の耳に、自分の名前を呼ぶライルの声が聞こえた。
 何? と思って、そちらに振り向いた瞬間……鎮紅の顔には驚愕の色が浮かんだ。
「え……?」
 気付いたときには、彼の身体はすぐ近くにあって、そして自分の顔の目の前にあったのは彼の――胸板だった。
「ライル…くん」
 彼の腕が背中に回されているのを感じる。彼の心臓の鼓動が、すぐ近くで聞こえるのが分かる。
 それが幸せに感じられて堪らない。彼に――抱きしめられていることが分かって、嬉しくて堪らない。例え、それが惚れ薬故だったとしても。
 彼の行為を受け入れるかのように、鎮紅はライルの背中に同じように自らの腕を回す。それと同時に、自分の身体に回されていた彼の腕にも、少し力が加わった。
 想いが通じ合っているような錯覚に陥り、鎮紅はライルにゆっくりと自らの顔を近づけていく。
「ライルくんとなら、私……」
 そう言って、彼女は自らの決心を彼に伝える。それに関して、彼は何一つコメントを表さなかったが、代わりにその表情にはわずかに笑みが浮かんだ。
 それが答えと受け取って、鎮紅は行為をやめようとは思わなくなった。
「ライルくん……」
 彼の呼吸が間近に感じられる場所まで顔を近づけると、鎮紅はゆっくりと目を瞑った。
 そして、彼女の唇と彼のそれが、強く重なり合う。

 しかし、それと同時に、彼の身体が震えた。
 何事かと思い、鎮紅が唇を離し、目を開けてみる。すると、そこには……
 顔を真っ赤に染めたライルの姿があった。
「し、鎮紅。い、今……」
 今の今まで触れ合っていた唇を自らの手で押さえ、彼は動揺が隠せない様子だった。
「うふふ……」
 そんな彼の様子を見て、鎮紅もその顔に笑みを浮かべる。その頬には、朱がさしていた。



 鎮紅編、終了