何かが割れる音が盛大にパン屋の中に響いた。
「な、何だッ!?」
ライルは慌てて、何かが割れる音のした調理場へと足を走らせた。
そこにいたのは…床に倒れる鎮紅の姿と床に散らばる砕けた食器の破片だった。
ライルは大体その時点で、何が起こったのか想像がついてしまう。
恐らく鎮紅が床のわずかな段差か何かで脚を引っ掛けて、そのままこけてしまったのだろう。
そして、その際、手元に持っていたか、それとも、身体で引っ掛けたのか分からないが、それが床に落ちたのだと想像がつく。
慣れというものは恐ろしいな…と、ライルは影で思った。
だが、それだとすれば、床で倒れている鎮紅の体が気になる。
「鎮紅! 大丈夫か!? 鎮紅!!」
そう呼びかけると、鎮紅はゆっくりと起き上がった。
「ライル、くん?」
その目は、どこか焦点が合っていないように見えた。
「鎮紅、大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫よ」
そうか…と安心して、ライルは鎮紅の足元へと視線を向けた。
すると、鎮紅の足元の裾はガラスの破片で切ったかのように裂けており、そこから真っ赤な血が少し流れ出していたのにライルは気付く。
「って、全然大丈夫じゃない!! 足、怪我してるだろうが!!」
鎮紅は今気付いたかのような感じで、自らも足元へと視線を移した。
「あら、本当…ね。どうして、今まで、気付かなかったのかしら?」
「そういう問題じゃない!! とりあえず、居間へ戻れ。応急処置ぐらいなら出来るから」
「そう、ね…。じゃあ、そう、させて、もらおう、かしら…」
ライルは、ふと鎮紅の先ほどからの異変に気付いた。
(やけに言葉が途切れ途切れで、呼吸も整っていない。目は虚ろだし、いつもの元気さもない…な)
ライルが、そう思ったときだった。
鎮紅の体が、グラッとライルに向けて倒れ始めた。
ライルは慌てて両手を出して、鎮紅の身体を受け止めた。
「鎮紅!! おい! しっかりしろ!!」
大声で呼びかけても、返事は返ってこない。
よく見れば、鎮紅の額には大量の汗が浮かんでいた。
そればかりか、吐く息もどこか熱い。
これは…
思い当たる節があって、ライルは自分の手で鎮紅の額に触れる。
温かいのレベルじゃない…鎮紅の額はとても熱かった。
「ッ……!!」
ライルは鎮紅がかなり酷い風邪であることを悟り、急いで鎮紅を自らの背中に乗せ、そのまま鎮紅の部屋へと足を走らせた。
鎮紅の辛そうな呼吸が、常にライルの耳に届く。
(鎮紅…どうして、黙ってたんだ!!)
それだけで、ライルの心に痛みと誰にもぶつけようのない怒りがこみ上げた。
「……」
鎮紅が目を開けると、そこに写ったのは見慣れた天井だった。
(ここは…私の部屋?)
頭がズキズキと痛む。
きっと、朝から続いている風邪のせいだろうと鎮紅は思った。
ライルと話していたことまでは憶えているが、それからの記憶が曖昧だった。
とりあえず、布団から起き上がろうと足を動かした瞬間、足にもわずかな痛みが走った。
「ッ……」
痛みのせいで、鎮紅の表情が少しばかり歪んだ。
(そういえば、皿の破片で足を切ってたわね…。私…)
ライルくんがそんなことを言っていたっけ…。そんなことを鎮紅が考えたときだった。
「鎮紅、起きたのか?」
鎮紅のすぐ近くでライルの声がした。
鎮紅はゆっくりと自分の目線を下ろしてみる。
「ライルくん……」
鎮紅の視界の内に正座のまま、安堵の表情を浮かべているライルが写った。
(…そうか。ライルくんの目の前で、私は意識を失ったのね…)
ライルの様子を見て、一目で鎮紅はそんなことを感じ取った。
だとすれば…彼にはとんでもない迷惑をかけてしまったことになる。
鎮紅の内心は、彼に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。
「…どうして風邪だって言わなかったんだ。無茶するなって、いつも言ってるだろ?」
「…ごめんなさい」
鎮紅は顔を俯かせて、弱々しい声でライルに謝った。
やっぱりだ…。私は彼に迷惑をかけてしまっている。
…本当はそんなつもりじゃないのに、どうして私は…いつも迷惑をかけてしまうのだろう。
「…今日はゆっくり休め。…鎮紅の分は、俺がやっておくから」
心配そうな表情を浮かべて、ライルは鎮紅に言った。
「…ごめんなさい」
鎮紅には、それしか言うことは出来なかった。
「…じゃあ、俺は余った仕事をしてくるから」
そういって、彼は立ち上がった。
「あ…」
鎮紅は、思わず小さく声を漏らした。
どうしてだろう? ライルくんが去っていくって考えると、心のどこかに寂しさがこみ上げてくるのは…。
彼が去っていく…、でも、迷惑をかけた私に止めることなんて出来るわけがないのに…。
そんなことを考えているうちに、ライルは鎮紅の部屋から出て行った。
「……」
誰も居なくなった鎮紅の部屋。
窓から入り込む夕日の光が、部屋を茜色に染め上げる。
(そういえば…いつの間にこんなに時間が経ってたんだろう)
ボーっとした頭で、鎮紅はボンヤリとそんなことを考える。
記憶があるときは、まだ朝早いときだったはず。
それなのに、もう夕日が昇ってるなんて…、どれほどの時間私は寝ていたんだろう。
「鎮紅、起きてる?」
そんなとき、ふと、部屋の外から薙刃の声が鎮紅に向かってかけられた。
「起きてるわ」
そう答えると、薙刃は扉を開けて部屋の中へと入ってきた。
彼女の腕の中には、いくつかの果物があった。
「薙刃、それは?」
「風邪のときは栄養をたくさん取ったほうがいいって聞いたから、さっき買ってきたんだよ」
そう言って、薙刃は先ほどまでライルが座っていた場所とほとんど同じ位置に腰を下ろした。
「鎮紅が倒れたってライルから聞いたから、すっごく心配したんだよ」
「…ごめんなさい。薙刃にも迷惑をかけちゃったわね」
そういうと、薙刃はキョトンとした表情で言った。
「ううん? 迷惑なんかかかってないよ? それよりも、鎮紅は病人なんだから、もっと誰かに甘えなきゃ!!」
「…でも」
迷惑をかけたのは事実だし…。
鎮紅が顔を俯かせると、薙刃は言った。
「もう、鎮紅はいつも遠慮しすぎだよ。ライルだって、仕事のことは後回しで、ずっと鎮紅の看病をしてたんだから。だから、今日は…パンの在庫がすぐになくなっちゃって、大変だったんだよ」
苦笑いを浮かべて、薙刃は言った。
「え? ライルくん…が?」
「うん。そうだよ」
目が覚めたとき、ライルくんは私のすぐ近くで正座して私が起きるのを待っていた。
でも、それが、仕事を後回しにしてまでしてくれていることだなんて…。
ライルくんの思いやりの暖かさが、じんわりと私の心に伝わってきた。
「あ、一応確認しておくけど、鎮紅、食欲ある?」
フルーツを片手に持って、薙刃が尋ねて来た。
「…そうね。あんまりないけど、少しくらいなら食べれるわ」
「よかった! それなら、ちょうどいい大きさに切ってくるね!」
薙刃は笑顔のまま立ち上がると、部屋を急いで出て行った。
私の部屋には、再び私一人だけになった。
でも、先ほどの寂しさはあまり感じない。
ライルくんの思いやりの温かさをかみ締めていると、一人の寂しさなんてどこかに行ってしまったから。
ライルくんは不器用だけど、とっても優しい。
それは、彼にとって当たり前のことかもしれない、でも、それが私にとっては、それがとても嬉しくて…。
「ふぁぁ……」
安堵した瞬間、私に突如睡魔が襲いかかってきた。
薙刃が果物を用意してくれているから、眠ったらいけないのに…襲ってくる眠気はまったく容赦がない。
うっつらうっつらと視界もぼやけ始め、瞼も少しずつ下りていく。
眠ったらダメだって言うのに、逆らうっていう気がまったく起きない。
(…後で薙刃に謝らないといけないわね…)
あ、あと…、起きたら…ライルくんにもお礼を言わなきゃ…。
でも…今は…おやすみなさい。
終了