バレンタインデー(植木・森の場合)
「そういえば、今年ももうそろそろバレンタインデーだね。あいちゃん」
森の友人が、森に話しかけるが、森はまったく反応しない。
それどころか、小さくため息をついているようだった。
「って、あいちゃん? どうして、ため息をついてるの?」
すると、森は今しがた友人に気付いたかのように、ビクッと身体を震わせた。
「え? な、何か言った?」
「何かって…もうすぐバレンタインだね…って聞いたんだよ?」
「ご、ごめん。聞こえなかったみたい」
森は慌てたように、友人に謝る。
森の様子に、はぁ…と今度は友人がため息を吐く番だった。
「ひょっとして、あいちゃん。もう、バレンタインのこと考えてるの?」
森は答えない。
つまり、図星…ということだろうか。
「はぁ…。すっかりあいちゃんも惚気ちゃって。数年前まで『バレンタインが何ぼのもんよ!!』って言ってたあいちゃんが懐かしいよ」
「…私、そんなこと言ってたっけ?」
森の様子に、いつもの覇気は一切ない。
いつもの口やかましい彼女とは違って、その様子はまるで迷える乙女だ。
「恋すると、人って変わるものなのかなぁ…」
森に聞こえないような小さな声で、友人はポツリと呟いた。
「え? 何か言った?」
森の耳には、それがわずかにしか聞き取れなかったらしく、友人に再び聞きなおすが、友人は、諦めのような口調で言った。
「何でもないよ…」
(植木…どんなチョコなら喜んでくれるかな…)
森は、学校から帰宅途中、そんなことを考える。
ホワイトチョコ、ブラックチョコ、ビター、スイート、ミルク、トリュフ…
言い出せば、いくらでも種類が出てくるチョコレート。
その中で、植木はどのチョコが一番好きなのか…。
渡す側からしてみれば、それが不安で不安でたまらない。
いつもは強気な少女でも、この時期ばかりは恋する乙女に変わるのだろう。
「とりあえず、義理っていう名目で渡すのは決定で…」
どれだけ悩んでも、それだけは確定条件。
正直なことを言ってしまうなんて、森は性分上到底できなかった。
だからといって、いくら義理チョコだと渡しても、力を込めて作っていれば、それが本命だとばれてしまうことに、森は気付いていない。
「…仕方ない。今年は、ミルクね…。あいつ、甘そうなもの、意外と好きそうだし」
その瞬間、森の足の目的地は家ではなく…スーパーへと変更された。
「…こんなところかしら」
箱は三つ。
植木の分と、佐野の分と、ヒデヨシの分。
全員箱は同じだし、形も同じ…。
うん、これで絶対に誰が本命かとかなんてばれたりしないわ。
「あ、もうこんな時間!?」
時刻は登校時間ギリギリを指していた。
森は、急いで家を出る。
そんな森の様子を、森の父親は微笑ましく見守っていた。
「さてと…植木、植木…」
学校に着くと、森は植木の姿を探す。
とは言っても、森の視界の中にはすぐさま植木の姿が捉えられる。
植木は…相変わらずグッスリと眠っていた。
(まったく…どうして、あんなにグッスリ眠れるのやら…)
植木にとって、不眠症という言葉は、一切関係を持たない言葉になるだろう。
「…今、渡しておくのもいいわね…」
ふと、森はそんなことを思った。
直接手渡しというのも、いくら義理とはいえども、恥ずかしい。
だとしたら、植木が寝ているこのときが、もっともばれずに渡すチャンスだ、と。
森は自らの鞄を持ちながら、植木の近くへと近寄り、そして、そっと植木の机の中へとチョコレートを忍ばせた。
(…これでよし。絶対にばれないわ…)
直接渡したかった、という密かな後悔はあるが、それはあくまでも自分の中に押し込めておく。
森は、そのまま自分の席へと戻り、椅子へと腰掛けた。
「…なんだこれ?」
眠りから目覚めた植木は、机の中の違和感にすぐさま気付いた。
ゴソゴソと机の中を探って、それを取り出してみると、出てきたのは…チョコレート。
「…あぁ…」
(そういえば、今日はバレンタインデーだって姉ちゃんが言ってたな)
チョコレートをみて、ふと植木は思いだした。
だとすれば、このチョコレートを渡したのは…誰だ。
いや、植木にその質問をするのは無駄なものだった。
植木の視線は森へと向けられる。
誰が渡してくれただなんて、すぐさま分かってしまう。
(…森、ありがたく食べさせてもらう)
植木は、そんなことを密かに思った。
この二人には、ひょっとしたら…バレンタインデーというものは必要ないかもしれない…
終了