夢を見ていた。太陽の熱に温められた塩辛い海の水に浮かんでいるような、たとえるならそんな浮遊感と心地よさの感覚の中を漂っていた。どことかいつとか、そういう具体的な情報は何も頭に残っていなかった。けれども、夢の中に彼女が出てきたことだけは確かだった。彼女は、森あいは、以前よりもずっと伸びた髪をおろし風になびかせて波を描かせていた。ゆるやかな弧を描きながら空色の髪があたたかな光に透けている。顔にはいつもの強気な笑顔ではなく、ふとした瞬間に見せる陽だまりのような、優しい微笑が浮かんでいた。オレは思わず手を伸ばす。いつものように森の手を引くと、ゆらりと影を揺らしてオレの胸板へと飛び込んできた。森の頭を両腕で抱きしめると、柔らかな髪がふわりとオレの腕を受け止めた。しばらく抱擁を交し合った後、森は顔を上げてオレを見つめた。空色の瞳に捕らえられて、視線が絡め取られる。彼女は、薄桃色の唇でこう言った。

「何か言って」

こういうとき、きっと求められているのはどうしたとか大丈夫かとかそういう言葉ではないことを、現実での経験から痛いほど―――本当に痛い目にあったことがある―――わかっていた。けれども、オレは頭の中が空っぽになっていて、そもそも無秩序な夢の中で何か気の利いたことを思いつくはずもなく、深呼吸して口を開いたまま、言葉なく固まってしまった。森が真っ直ぐにオレを射抜いている。今か今かと、オレの言葉を待っている。期待に応えなければいけない、けれど、オレの中には確固とした名前の付けられる感情はなかった。あるのはほろ酔いのような、あるいはぬるいお湯に浸かったときのような、あたたかく心を包む何かだけだった。森がオレの声を待っている。けれどもオレは声を封じられたかのように何も言えない。仕方なく、あるいは最初からそうするのが目的で、オレは言葉の代わりに森の唇に顔を近づける―――。

 

 

 

というところで意識が覚醒した。なぜだか、得体の知れない重量感が胸板を圧迫している。まだ夢の中で森を抱きしめているのだろうか、しかし夢の中で背中に手を伸ばして引き寄せた森は羽のように軽かったがはたして、とオレは息苦しさの根源を確かめるために光を嫌がる目を開けた。オレの目の前を占拠した光景は、言わずもがな、オレの上に乗っかっている彼女だった。身じろぎしたオレには構わず森はオレの身体と十字に交差するように寝っ転がって、雑誌をオレの胸の上に広げぱらぱらと斜め読みしていた。森は、いつもは額の上の眼鏡を鼻の頭にちょこんとのせて、一秒に一ページめくられるやたら早いペースの雑誌を、目をきょろきょろ動かしてなぞっていた。忙しなく転がる視線はオレの方に向くことはいまだなかった。とにかく、息苦しいし、重い。よくよく見てみたらうつぶせに寝転んだ森の細い肘がオレの胸に押し付けられている。そりゃ痛いだろう、肺は苦しいだろう。自分を労わってから、とりあえず彼女を観察してみることにした。森は大玉ビーズの並んだ髪留めで長くなった髪を左側にひとまとめにして流している。うつぶせになった身体は初めて見る紺と白のチェックのワンピースをまとっていて、黒いタイツの足がリズミカルに上下に動いていた。どうやら耳にはイヤホンがつながっていて音楽を聴いているらしい。黒いそれからかすかにだが、音が漏れている。それからオレの鼻にも、新しい雑誌特有のインクのにおいが届いた。いつまで経っても気が付かない森に手を伸ばして、左耳のイヤホンを外す。

やっとオレに目を向けた森は、憎たらしいことにきょとんとした顔をして、

「あんた、起きたの」

とオレの上に乗ったまま尋ねてきた。

「そりゃ、人ひとり乗ってたら起きるだろ」

「いつでもどこでも寝てる人が、よく言う」

皮肉を皮肉で返されて言い負かす言葉も見つけられずに黙った。こういう部分で森に勝てた試しはない。ため息をひとつ、せめてものお返しについてみたはものの、身体をどけようともしない森の目は再び雑誌に戻った。それはオレが部屋の隅に捏ねておいた一冊だった。

ぶらぶらと揺れる足にあわせて、森の髪が揺れた。夢の中で見た光景と、同じ色を放っている。蛍光灯に光る大粒のビーズが辺りに虹色を散らしていた。空の色を、七色が閉じ込める。

覚醒しきってから思い出したが、オレがちょっとばかし昼寝をしようと思って目を瞑ったときには森はいなかったし、夜勤明けでくたくただったため今朝は郵便受けを見るどころか玄関の鍵すら開けていない。なのに今森はオレの上でだらだらしている。

「そういえばお前、いつの間に来たんだよ」

「夜勤明けのあんたのためにご飯作りに来たのよ」

そういえば婚約を機に、森に合鍵を渡したことをすっかり忘れていた。以前は佐野の、お前は一度たがが外れたら森が泣こうがわめこうが立ち入り禁止区域に入っても止まらんヤツや、と自分のことは棚に上げた妙な忠告に従って森を家に泊めることは自分の中でタブーにしていた。だけど先週森の親父さんにも頭を下げたしうちの父ちゃんと姉ちゃんは元々大賛成だったし周囲がすでに祝福モードになったため、オレもその決まりを取っ払うことに決めたのだ。泊まれないとなるとオレの休日しか会えないし、それではいつまで経っても婚約止まりになってしまうからだ。森が鍵の効力を行使したのは今日が初めてだったが、彼女もまた鍵を渡されたことで彼女から婚約者という立場を実感したらしく、今まで以上に世話を焼いてくれた。ぶっちゃけ通い妻状態だな、と言ったのはヒデヨシだったか。

雑誌を読み終わるまで根気よく待っていたオレは、森と違って特にすることもないしと言うよりも彼女が乗っかっていては何をすることもできないでいたが、ぼんやりと夢の中の浮遊感を思い浮かべている間に森は雑誌を読み終わったらしく布団の向こうへと放り投げ、ついでに耳に蓋をしていたイヤホンを外しプレーヤーを投げ捨てた雑誌の上へと滑らせると、しかしオレの上から退く気などさらさらないらしくごろんと仰向けに寝転がった。正直言って今度は胃が圧迫されてとにかく苦しい。

「ねえねえ、見て見て。キレイでしょ?」

森は自分の左手を天井にかざして、オレに見せてきた。左薬指にはちょうど二週間前の夜、この場所で渡した指輪がはまっている。小粒のダイヤモンドの花びらが右から差す蛍光灯の光と、左から降り注ぐ陽の光を同時に跳ね返してきらきらと輝いていた。森はこの二週間、ことあるごとにオレに指輪を見せ付けて綺麗でしょうと同意を求めてきた。オレに言わせればオレが買ったんだから当たり前である。

「ハイハイそーだな」

「もーっ、テキトーすぎーっ!」

森は膨れてオレの上でごろごろと転げまわった。痛い痛いと悲鳴を上げると、森がうつぶせの体勢で折り重なるように身体をくっつけて、ずいっと顔を近づけてきた。眉間にしわを寄せて、どうやら正解を言わなければ完全にへそを曲げてしまうつもりらしい。オレの目と十センチも離れていない場所で左手の甲をかざして、脅すように低い声で訊いてきた。

「ねえ、ホラ、キレイでしょ?」

「・・・・・・ん。似合ってる」

女って言うのはわけのわからない生き物だ。それだけで機嫌を直した森は、満面の笑みを浮かべて悶えるようにごろごろとオレの上を行ったり来たり転げまわってから再び胸の上に折り重なってきた。心臓の上に耳を押し当てられて、乗られていただけではペースを崩さなかった鼓動が、妙に早く脈打ち始めるのに焦ってしまう。森にオレのリズムを聞かれていると考えると、根っこの部分をぎゅっと握られたようなむずかゆさを覚える。誤魔化すために森の背中を掻き抱いて、髪にキスを落した。キス以上の行動でなら脈が乱れても仕方ないと思えるからだ。髪に顔を埋めたまま、オレはなんとなく夢の話をしてみた。

「なあ、最近さ、森の夢ばっか見る」

「私の夢?」

顔を上げた森と視線が合う。自分が始めた話とはいえ、その空色の瞳に射抜かれた状態で彼女の話をするのは少々心臓に悪い。血液が更に早く小刻みに流れていく。

「プロポーズしてから、毎日くらいのペースでさ。前より会える日増えてんのに、欲張ってんのかな、オレ」

オレの言葉に、森は少々考え込んだようだった。その沈黙の間、オレも目の前の彼女のことを想い考えてみた。そういえば、この体勢は傍から見ればまるで、森がオレを押し倒しているみたいでとても倒錯的である。森にそういう意図があるはずもないから、圧し掛かっているのは紛れもなく彼女のほうなのに、一方的に乾き飢えているのはオレだ。たぶん鍵を渡したのも、森にオレの生活を握らせるためではなく森の世界をオレの世界とすり替えて奪うためだ。その上夢でも手に入れたいなんて、強欲すぎる。反省はできてもなくすことはできない感情を、否定はするがどこかで目の前の肩を掴んでそのまま転がれば、上下が逆転する事実を知って隙を狙う。森は隙だらけだった。

「昔の人はね」

その彼女が突然口を開いたからオレは不自然に肩を揺すぶる。構わず森は続けた。

「夢に人が出てきたら、夢を見た人が焦がれて夢に見たんじゃなくて、夢に出てきた人が自分に会いたくて夢まで会いに来た、って考えてたんだって」

「ふーん。森は、物知りだな」

当たり前でしょ文学部なんだから、っていうか高校でやったでしょ、とぼそぼそ呟いた森を目の前に、オレは大切なことに気が付いた。

「・・・その話を今したってことは、どういうことだ?」

知らない、と機嫌が悪そうに顔をそらした森の頬は、赤みが滲んでいる。全部、ひとりよがりの都合のいい解釈だ。相手が夢にまで会いに来てくれたなんてことも、触ってもいないのに森の頬が熱を帯びていると思い込んでいることも、オレのために手袋をしない手、背後で香りを漂わせる冷めたスープ、それから、隙だらけの彼女。鍵を渡して、泊まりを解禁した意味を、森はわからないほど鈍いやつとは思わない。そもそもオレが鈍いなどといえばかんかんになるだろう。でもそれは、全部オレの勝手な思い込みだ。

メガサイトでは、よく森の夢を見た。たぶん婚約してからのここ二週間よりも、ずっとずっと多くの森を夢で見た。がむしゃらにみんなの記憶を取り戻そうとしていたときよりもずっと多くの夢を見た。それは記憶を取り戻した森と離れても気持ちが繋がっていたからだと、許されるなら思いこんでいたい。

オレはずっと虎視眈々と狙っていた森の隙を、ついてみることにした。頭の中でシミュレーションしたとおり細い肩をつかんで左腕を取りそのまま受身を取る要領でごろんと転がると、森とオレの上下が逆転した。それだけで変わる世界。緩みきっていた森の空気が、張り詰める。息を呑んだ彼女の身体をはさむように膝ではさんで、ねずみを狙う猫のように姿勢を低くすると、ちょうどいい場所に森の耳があった。真っ赤になったそれには、オレが贈った一滴の真珠が留められている。

「・・・それで?物知りで、もうすぐ文学部心理学科を卒業する森は、この状況をどう分析するんだ?」

ちょっとからかってやるだけのつもりだった。森の答えを楽しみにしながら首筋にキスをすると、彼女の身体に悪寒が駆け抜けていくのが見て取れた。今までだって幾度かはこういう艶っぽい雰囲気になったことはもちろんあったけれど、そのどれも、森が学生で、オレが駆け出しと言う理由で駒を進める気は互いになかった。けれど、今は違う。少なくともオレは、鍵を渡したことでいよいよさいころを振ってやろうと構えていた。

しかしながら真っ赤になった森は色気も何もなくこう叫んだ。

「・・・せ、せ、せ、セクハラよっっ!!」

「・・・・・・まあ間違いじゃねえけどさ・・・」

一応婚約者にセクハラとは、もう少し言いようがあったのではないかと思うが、あながち不正解ともいえない。もうちょっとだけ、と思って今度は正攻法にのっとって唇にキスをしたのだが、軽く触れただけなのに妙に色めいた声を上げたから、こちらも驚いてファーストキスよりもぎこちなくて短いものしかできずに離れてしまった。森の鼻の頭にのった眼鏡がずり落ちる。

「森、・・・・・・そんなガチガチにならなくても今日は何もしねえよ」

ばかっ、と鋭い一声と共に頭に軽い衝撃を食らった。森が放っておいた雑誌を丸めてオレをたたいたようだ。せっかくオレが貼っておいた付箋が二枚、その拍子にひらりと舞った。

森は真っ赤に顔を染めながらも、オレに結局抱きついてきた。たぶん、いつもの恥ずかしいというヤツだろう。外でキスをしたり抱きしめたりすると決まって森はペースを乱して動揺して、場合によっては攻撃的になる。けれど最終的にはいつも甘えてくるから、本当に女の子の、森の全部を理解するのは困難だ。だからこそずっと一緒にいるのだろうけど。

「・・・・・・あんた、インテリア雑誌なんてどうして読んでるのよ。ご丁寧に付箋までつけちゃって。模様替えでもするの?」

森のその質問は果たして、本心から尋ねているのか、期待している答えをオレの口から聞きたいがためかはよくわからない。オレはごまかしもしないし、出し惜しみもない答えを森の耳元で囁いた。

「小さすぎるだろ?この部屋は。・・・一緒に住むのにはさ」

森は何も反応しなかった。ただ、オレの胸元に頭を押し付けているだけだった。

「だから引っ越そうと思って」

「・・・・・・どうしてそういう大事なことを、早く相談してくれないの?」

「いいマンションがなかなか見つかんないんだ。決まってからのほうがいいかなって思って」

バカ、と呟いた彼女はさらにオレの身体に頭を摺り寄せてきた。表情は覗えないけれど、きっと悪いものではないと断言できる。

「そういうことは、早めに言って。私達、夫婦になるんだから」

顔を上げた彼女はまっすぐとオレの目をみつめて言った。照れくささは浮かんでいたけれど真剣なまなざしで、そうか夫婦とは一生を助け合って生きていく約束なのかと当たり前のことをその瞳の中で再確認させられる。オレは身体を起こし、布団の上に胡坐をかいて座る。森も一緒に起き上がり、崩した正座の状態でオレと向き合う。

「森、結婚式もまだだけどさ、オレと一緒に住もう」

森は頷きもしなかったし、否定もしなかった。ただそこにちょこんと座っているだけだった。

「お前とのことは、夢じゃなくて、未来が見たい」

幻想ではなくて、共に歩いていく未来を。過去には散々たくさんの思い出を作ったけれど、それを振り返るだけじゃなくて、確かな未来像の中に彼女を見ていたい。ただ隣にいただけのクラスメイトだった森の未来を見たくなったのは、いちばん近い距離でないと耐えられなくなったのは、いつからだったろう。

森は一瞬視線をそらして、前髪をかきあげた。その表情は夢で見たような生ぬるいものとは程遠く、呆れたような苦い顔で、自分としては精一杯の言葉だったのに笑顔が返ってこないのはこちらとしても少々不満ではある。

「・・・プロポーズでそれ言えば、合格だったのに」

「いつ言ったっていいじゃん。減るわけでもないし」

そういう問題じゃないとため息をついた森は、丸めて放っておいた雑誌を引き寄せると再び、今度は真剣にぱらぱらとめくりだした。付箋を留めた箇所を眺めてから森はこう呟いた。

「だいたい、付箋ついてるのみんなベッドとか寝具じゃない。これこそセクハラだわ」

そんなものは聞き流して、オレが低く今日は泊まってくよなと有無を言わさず問うと、森は首を縦に振った。これからのことを話し合わないといけないしね、と言った森は、作り置いていたスープに熱を通すためキッチンへと向かう。立ち止まって振り返り、ただしあんたも今日は何もしないって言ったわよね守ってよ約束、とぴしゃりと釘を刺されたので、

「今日はな。日付変更されてからは保証しねえけど」

しれっとそう言ったら容赦なく蹴りをぶち込まれた。

 

 

 

それは本当に突然だった。休みの日、オレを起こしたのは目覚ましの音でも鳥のさえずりでもなく、インターホンの音だった。何度もしつこく鳴り響く機械音に辟易しながら仕方なくドアを開けると、扉の隙間から伸びてきた何かに腕をがしっと掴まれてそのまま家から引っ張り出された。その手の正体は。

「姉ちゃん?朝っぱらからどうしたんだよ」

「行くわよ耕ちゃん。ほら、早く家の鍵閉めて」

姉ちゃんはライラック色のワンピースを着て、白いカーディガンを羽織っていた。結婚したばかりの旦那さんの姿が見えないところを見ると、また無理を言って飛び出してきたのだろう。姉ちゃんは父ちゃんが住むマンションに足繁く通っているようだった。何もこんな朝から、とため息をつくと、姉ちゃんは、何を言ってるのもう十一時過ぎよ〜、と頬を膨らませた。寝坊したことは紛れもない事実なので言い返さず、言われたとおりに玄関の扉を閉める。

「で、どこ行くんだ?」

「うふふ、まだ秘密〜」

姉ちゃんは楽しそうに笑って人差し指を唇に当てる。まだということはいずれは知ることになるだろうから、とりあえずは姉ちゃんに従ってアパートを出て、姉ちゃんの旦那さんの車に乗った。正直、姉ちゃんが運転するのを旦那さんは恐ろしく思っているらしく、車を貸すことはなかったから勝手に鍵を持ち出したのだろう。オレも姉ちゃんの蛇行運転は何度も経験していてよく免許取れたなとむしろ感心してしまうが、行き先を知らされていない以上、オレにハンドルを譲る気はないようだ。さっさと運転席に乗った姉ちゃんの隣に、オレも滑り込んだ。姉ちゃんの旦那さんは結構ハイカラな人で、スポーツカーのように鋭いフォルムの赤い車を愛用している。どこかのボタンを押すとオープンカーになるらしい。

姉ちゃんはたどたどしい手つきで車を発進させた。最初の曲がり角で逆のウィンカーを点滅させたときはひやっとしたが、他はなんとか無事に走らせる。

いつもの町並みが窓の中を通り過ぎる。オレが休みといえど世間一般は平日扱いである。赤ちゃん連れの母親がウィンドウを覗きながら歩いている。姉ちゃんはどうやら、先日森と行ったデパート近くの裏を目指しているようだ。あそこにはいったい何があっただろうか、女性のブティックが集中する風鈴市の外れのこの通りは、もちろんのこと森を連れてしか来たことはない。指輪を買いに来たただの一度以外は。

姉ちゃんは、小さな駐車場に何とか駐車した。ハンドブレーキを引き忘れていたのでオレが引いておいたが。

「到着よ〜」

姉ちゃんが指差した店に、オレはあっと小さく声を上げた。それはいわゆるブライダルショップというやつで、見覚えのある店だった。確か、ここで、まだ高校生だった森が熱心にウィンドウを覗き込んでいる後姿を見かけたことがあった。その店に今、オレは客として扉をくぐろうとしている。

ウィンドウには真っ白なウェディングドレス、春先とあって華やかにレースと真珠で飾られていて、たぶん森の姿にこのドレスを重ねようと努力してしまうのは、婚約者として当然だと思うがなにやらむずかゆいものがある。隣に並んだのは薄ピンクのドレスで、マネキンの手には造花のブーケが握られてそれからのびたリボンがだらりと床まで垂れている。

「ほら耕ちゃん、ぼうっとしてないではやく入って!」

顔を上げると、姉ちゃんが扉を開けてオレを待っていた。男にとっては確実に入りにくい世界の扉をくぐったオレは、綺麗なスーツをまとった世間一般で言う美人の店員に、いらっしゃいませと声をかけられた。

「ただいま〜、ありがとう、弟を連れてきたのよ」

「あら、それじゃこの方が自慢の弟さんってわけですね」

姉ちゃんは店員と知り合いのようで、たぶん自分のドレスを借りたときに知り合ったんだと思うが、親しげにオレを美人店員に紹介してオレも戸惑いつつどうも、と頭を下げた。

「翔子さんのご結婚とそう遠くなくご婚約されたとか。本当におめでたいことが続いて素敵ですわね」

「はあ、まあ」

「うふふ、そうでしょ?父も大変よ。やっと私がお嫁に出たと思ったら、可愛いお嫁さんをもらうんだもの。家族が増えて忙しいわ」

「お幸せですわね」

「もちろんよ。私も可愛い妹が欲しかったの〜」

美人店員と姉ちゃんはオレを置き去りにしてふたりで会話を楽しんでいる。この女同士のテンションにはついていけそうにない。ひとまず座れと案内された椅子に腰掛けると、美人店員が隙のない手つきでオレと姉ちゃんに飲み物を渡してきた。渡されたコーヒーをすすりながら、店の中をぐるりと見回す。

店は黄色っぽい照明で照らされていて、落ち着いた雰囲気だった。しかしそこには結婚という浮き足立ったカップルのために華やいだ空気を演出していて、ウェディングドレスを着たマネキンやアクセサリーの棚などが所狭しと並んでいる。カーテンが閉まっているのでどうやら試着している他の客もいるからか、暖房は結構高めで上着を脱いでしまいたくなる温かさだった。

「ご婚約者さまに合いそうな衣装はございまして?」

美人店員がにこにこしながらオレに尋ねてきた。姉ちゃんはたぶん、早くオレと森に式を挙げさせたくてここに連れてきたのだろうけど、肝心の森がいなくてはどうしようもないと思う。

「いいのよ〜、直感で。あいちゃんに着て欲しいなってドレスを言えばいいのよ。だって耕ちゃんがいくら着せたくてもあいちゃんが気に入らなかったらどうせダメなんだから。今ここで選ばせるために耕ちゃんを連れてきたんじゃないんだし」

姉ちゃんが瞳を緩ませてそう言ったので、じゃあと言った感じに適当に二、三着指を差して見せた。どれも真っ白なドレスで、似たようなデザインで正直差がぱっと見ても取れないドレスだった。

「あら、真珠のあしらわれたものがお好みですか?」

「オレが好きっていうより・・・たぶん、彼女には真珠が似合う気がして。レースとかでごてごてしてるのより」

「うふふ〜、惚気ちゃって、耕ちゃんたら」

姉ちゃんが隣でにやにや笑っているが、やっぱりいくら店内を見渡しても派手に膨らまされたドレスとか赤いドレスとかよりも、白くてシンプルなドレスが目に留まる。そのどれにも何かしら真珠が飾られていて、結局オレに意見を求められてもそれ以上は答えられないだろうから口をつぐむことにする。

すると美人店員が立ち上がって、ならこれとこれも見てみましょうとドレスを持ち上げた。オレは慌てた。オレの意見で決めるようなものではないし、第一結婚式の日取りなんてまったく決まっていない。こちとらやっと同棲の約束を取り付けて、そういうことはこれから決めようと思っていたのに、周りが先走って勝手に話が進んでしまえば、当人のオレたちが困ってしまう。

「あ、あの、悪いんですけど今日決められるものじゃ・・・」

「失礼しました。でも大丈夫ですよ。今日は試着だけだと承っておりますから」

美人店員はそれをもって奥に引っ込んだ。なら、なぜドレスを持って消えたのだろう。再び現れた店員に手招きされて、オレと姉ちゃんは立ち上がり店の奥に案内される。

「終わったようですので、どうぞ」

美人店員が、一番右の試着室のカーテンを差して笑った。まさか、でも、彼女以外のドレス姿を見てくれと言われるはずもない。だったら、たぶん、この中にいるのは。

恐る恐るカーテンをつまんで少しだけ、引いてみた。なんだか覗きをしているみたいな手つきだった。柄にもなく、指先が震えた。

中の女性と目が合う。そして少しだけほっとした。だってやっぱり、中にいたのは・・・。

「・・・・・・何か言いなさいよ」

顔を真っ赤にして、唇を尖らせている森だった。いつもと違って、まるでお姫様みたいな格好をしているけれど、それは紛れもない森あいだった。真っ白なドレスには胸元に白い花と真珠が散らされていて、オレが指差したものよりも凝ったデザインのドレスだった。髪はひとまず頭の上でまとめてお団子にされている。森は、いつまで経っても隙間以上にカーテンを開かないオレに業を煮やしたのか、自分でカーテンを開けると二歩前に出て、姿見に自分を映す。

「あいちゃん、すっごく綺麗よ〜!ほら、ぼうっと見惚れてないで耕ちゃんも何とか言って」

姉ちゃんにせっつかれて、オレは何とか貧弱なボキャブラリーを検索して森に感想を伝えようと必至になる。しかし、真っ白なドレスをまとって、いつもより念入りに化粧を施された瞳の森に見つめられて、いつも以上にうまい言葉が見つからなかった。森が言葉を待っている。今か今かと、オレが何かを口にするのを待っている。オレはその期待に、こたえなければならない。けれどやはり、何も見つかる言葉はなくて。

「・・・・・・馬子にもいしょへぶっっ!!!」

言い訳をするなら、本当に何も思いつかなかったのだ。そのことわざの意味はもちろんわかっていたし、決して照れ隠しとかそういうつもりもなかったのだが、晴れ着を褒める(のかは後から振り返れば本当に疑問だが)言葉を他に思いつかなかったのだ。たぶん今まで、森に気持ちを伝えたくても言葉を失ってしまったとき、森ならわかってくれると甘えてきちんと言葉にしなかったツケだろう。

ちなみにオレがそれを言い終わる前に頬を殴り飛ばしたのは意外なことにドレス姿の森ではなく、オレの隣でにこにこしていたはずの姉ちゃんだった。

「ひどいわ耕ちゃん・・・!!お姉ちゃん耕ちゃんをそんなことを言う子に育てた覚えありませんっ」

姉ちゃんはなにやら落ち込んだ様子で床に拳を叩きつけて悔しがっている。一応ここは家ではないのだから、そんな行動をとれば普通は奇怪な目を向けられるだろうが、美人店員はどうやら慣れているらしくただにこにこしているだけだった。

「ほら耕ちゃん!あいちゃんに謝って!!」

復活した姉ちゃんはオレの頬っぺたを指で挟んでぐりんと無理やり森の方へ向けると、とにかく謝って褒めろと強要する。もちろんそうしたいのだが、なにぶん顔をつかまれたままでは喋れない。

主役のはずがひとりぽつんと置いてかれていた森ははっと我にかえり、再びオレの言葉を待つ。

「すぴばせんでじだにわっでるどおぼいばす」

「耕ちゃんそんな言い方じゃダメ!!日本語になってないわ!!あいちゃんに愛想つかされたらお姉ちゃんショックで寝込むから!お姉ちゃんの妹を返して!!」

「あの翔子さん、植木、そのままじゃ喋れないんじゃ・・・」

森が出した助け舟で、そういえばそうねとやっと手を離した姉ちゃんは、エキサイトした気持ちが多少落ち着いたのかオレの背中をぽんと軽く押して笑った。姉ちゃんに後押しされて、オレはドレス姿の森と向き合う。

「森」

何よ、と返した彼女の頬っぺたを、遠慮なく思い切りつねってみた。いたたたた、と声を上げてオレの手を叩いたから、オレはぱっと手を離す。当然ながら森は眉をひそめて突っかかってきた。

「何、何のつもり!?」

「・・・夢、じゃないかと思って」

だって、そんなに綺麗な女の人を、オレは見たことがないから。そう伝えればよかったのだろうけど、あいにくのことそんなに気障ったらしい台詞が言えるのだったら、最初からこんなに語彙力の無さに嘆いてはいない。

森は、ふっと笑った。オレがつねった頬はちょっと赤らんでいたけれど、怒っていた顔が緩んで優しく、オレに笑顔を見せた。それは、オレが夢で見たものとそっくりな笑顔で、いつも勝気に笑う笑顔ではなく、羽毛のようにかすかに笑うものだった。

「ばか・・・・・・あんたは、夢じゃなくて未来が見たいんでしょ?」

森はオレの手を握って、目を閉じる。瞼に薄く引かれたブルーの線がきらきらと光った。森は、緊張しているのだろうか、絡んだ指の間からも聞こえる小さな鼓動の合間に、こう懇願した。

「お願い、綺麗って言って。そしたら私は、胸を張って堂々と、あんたの隣を歩けるから」

オレは真珠のピアスが飾られた森の耳元で、世界でいちばん正直な言葉を囁いた。それを聞いて満足した森の笑顔は、世界でいちばんまぶしい、いつもの太陽のような笑顔だった。

tell me something!!

 

 

朔夜さまへ

遅くなってごめんなさい!相互ありがとうございました。

今回前の更新の、軽くもうひとつのエンゲージの続きとして小話書かせていただきました。

とにかく甘いものということで、甘い・・・甘い?甘いってなんだろうと自問自答を繰り返しつつ、そういえばウチの森ちゃんはやたらツンデレっぽくてしかもあんまりデレてない!よしデレろ!!という感じで安易に書き始めました。ちょっと長いですかね?ごめんなさい。あと結婚ネタが大好物です。(誰も聞いてない)

あとあと、タイトル及び内容が私の好きな某アーティストの曲からネタを頂戴してます。よろしければそちらもぜひに!!(笑)本当に遅くなってすみませんでした。こんなんですが煮るなり焼くなり捨てるなりどうぞお好きにしてください。



さくら右京さまへ

このような素敵な作品を送っていただけて、本当に嬉しいです! ありがとうございますっ。
もうひとつのエンゲージは何度も読んでいる作品だったので、読んでいる途中から「おや・・・? これはもしや?」と思ったら、やっぱりそうだったのですごく嬉しかったというか・・・結婚ネタは好きなんですよ! 自分は書いてないですが(汗
読みながら、ずっとニヤニヤしっぱなしでしたねw もっとイチャイチャしろよ(ΦωΦ)フフフ… とか言いたくなってしまう二人でしたw

右京さんの日記を拝見して、Gから始まる某アーティストの歌かなぁと予測して、作品を読み終えてから歌詞+音楽を聞いてみました。作品の中で「夢じゃなくて、未来が見たい」というセリフは「君に触れた時、未来がみたくなった」というところから、来てるのかなぁと思ったり。「夢じゃなくて」という部分がかっこいいですねぇ・・・。
自分なら、プロポーズの時にこんな台詞は思い浮かびませんね(;´∀`)

更新はゆっくりとしたものですが、これからもよろしくお願い致しますっ!