「…ライル、君の意見はよく分かった」
 ライルは黙って上層部の言葉に耳をかたむける。
(…俺に出来ることは全てやったんだ)
 …精一杯やったとは言っても、それはあくまでも私的な感情、意見に過ぎない。
 上層部の人間が『それがどうした』と言ってしまえば、何も言い返すことはできない。
「だが…それは、あくまでも君の願望であって、正統な理由も根拠のある理由も、一切ないようにも聞こえる」
「ッ…!」
 予想はしていたが、やっぱりそう来たか…。
 ライルは、密かにゴクリと息を飲んだ。
 ここで、上層部の人間が断言してしまえば、もう逆らうことは出来ない。
 出来るとしたら、イエスズ会の脱会だけだ…。
 確かに薙刃には、その可能性を示唆した…が、そうなったとして、本当に出来るのか?
 ライルの心に、少しずつ焦りが生じ始める…が。
 上層部の人間は、フッと小さく笑った。
「…と、言いたいところだが…、ライル、君の変わりようを見るだけで、よっぽどそのパン屋が、君にとってどれほどの変化を齎したのか、想像が付くよ」
「え?」
 ライルは、呆気に取られていた。
 先ほどまでの厳しい表情は、どこに行ってしまったのかと思うほど、その表情は優しく慈悲深いものだった。
 何で? どうして? ライルの頭に、次々と疑問が浮かび上がってくる。
「…分からないのか? 君の望みを聞き入れよう。そう言っているんだ」
「え? …それは、本当ですか?」
 ライルは、未だに喜びを感じていなかった。
 その目には、戸惑いと疑いの視線が宿っていた。
 信じられない…信じることなど出来ない。
 あのイエスズ会が、自分の意見を受け入れてくれるなんて…。
「…しかし、以前のように定期的にイエスズ会には報告をしてもらう。あと、そこで暮らすことは構わないが、任務はちゃんと請け負い、そして早く丁寧にこなすこと。それが出来なければ、ライル、君の意見は即刻取り消させてもらう」
 その目は、優しく、そして厳しく、ライルを見つめる。
 そして、そこでようやくライルの心に喜びという感情が浮かび上がった。
「は、はい! ありがとうございます!」 
 ライルは、深く深く頭を下げた。
 自分の意見を取り入れてもらったこと、それは決して口では言い表せないほど嬉しくて、ライルにはそれを頭を下げるという行為でしか表すことができなかった。
 それを見つめながら、優しげな笑みを浮かべて男は言った。
「さて、君はもうここにいても意味がない。早く教会に戻って、仲間に報告したまえ」
「は、はい!」
 ライルは駆け足で、部屋のドアのところまで来ると、最後に振り向いてもう一度頭を下げ、そして彼は…本部から去っていった。

「これでいいのか? ジルベルト」
 ライルの姿が、完全に無くなってから、男はポツリと声を漏らす。
 その声を聞き、ジルベルトが柱の影から姿を現した。
「あぁ。申し訳ないな。無理難題なお願いをして」
「まったくだ。ジルベルトからだから、何かと思えば『ライルの望みを聞き入れてやってくれ』とはな…。上層部の人間の説得に、どれだけ苦労したことか…」
「すまない。それには感謝している」
 いつものような、ふざけの入ったようなジルベルトとは違う。
 その態度も、表情も、真剣そのもので、実は先ほどのライルのことに関しては、ジルベルトが一人、裏で動いていたのだった。
「にしても、君の言うとおりだな。『ライルは変わった』と聞いていたが、あそこまで表情が丸くなっているとは…」
「そうだろう? 僕も、最初ライルを見たときは、びっくりしたよ」
 ははは、と軽く笑いながら、ジルベルトは言った。
 それに、男も、ふふっと薄く笑って賛同する。
「あそこまでライルが変わった原因は、何だと思う?」
 男が、ジルベルトに尋ねる。
 ジルベルトは、遠くを見つめてボソッと呟いた。
「さぁ。それは、僕には分からない。ライルの言葉を柱の裏で聞いていたけど、暮らしていた家も、住んでいた環境も、一緒に数年を過ごした人々も、ライルの変化にとっては重要なものなんだろう。それに順位をつけることなんて、僕にも出来ないし、君にも出来ない。いや、ライルにも出来ないだろうね」
 ライルの気持ちも代弁するかのように、ジルベルトは言い切った。
 男もフッと薄く笑い、『そうだな』とジルベルトの言葉に納得した。
『俺は、あの家も、あいつらも含めて、あの町で暮らしてきた数年間の何もかもを…失いたくない!』
『失いたくない、大切な人間が出来たんだ。そいつとは絶対に戻ってくるって約束したんだ。だから、俺はどれだけ諦めろって言われても、そいつとの約束を守るためにも、無理だとは絶対に認めない!!』
 二人は、そう強く断言していたライルがいた席を、ただジッと見つめていた。

続く


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